ときは、江戸の半ば。尾張の国に風変わりな殿さまがいた。徳川宗春がその人だ。藩主としての初名古屋入りでは、」かごを使わずに馬に乗り、水色のずきんにべっ甲の丸笠をかぶっていた。藩士はもちろん領民の度肝を抜いた。芝居や踊りを奨励し、名古屋の町は大賑わい。「名古屋の繁華に興(京)がさめた」といわれたほど”芸どころ”の礎を築いた宗春の登場により名古屋は都市として飛躍を見せた。今年(2010年)開府から400年を迎えた名古屋だが、いまひとつ元気が無い。沈滞ムードを吹き飛ばそうと大衆演劇祭「風流大名、徳川宗春」公演など多彩な400年行事が繰り広げられる。
宗春とは、尾張藩七代藩主。三代藩主綱誠の20男として1696年(元禄9年)に誕生。1703年、兄継友の急死により、藩主となる。 武士の芝居見物を自由化し、名古屋に芝居小屋が並ぶようになり、遊郭も許可したことで、三町に遊郭ができあがった。名古屋は人が集まって商売が盛んとなり、隆盛を極めた。その一方、突然の娯楽により、風土の悪化を招いた上、藩の財政が赤字化。綱紀粛正に転じたが、倹約主義、緊縮政策の将軍吉宗の怒りに触れ、1739年隠居謹慎を命じられた。その後。1764年に死去するまで幽閉される。「慈」と「仁」を柱にした「温故政策」を著した。町に出る時に、赤い着物を着て白い牛に乗った奇妙な格好で出掛けたことでも知られる。 2010年3月7日・中日新聞より
神宮式年遷宮を4年後に控えた2009年11月3日、宇治橋渡染式が行われた。式年遷宮と同様、20年ごとに宇治橋を架け替えるのは、明治の時代になってからだ、1949年に予定した第59回式年遷宮が、戦後の窮状もあり延期される中、宇治橋だけは架け替えられた。その後59回は4年後に斉行され、以来、宇治橋は遷宮の4年前に架け替えられている。大工の作業を分散するとともに遷宮への興味を高める役割を果たしている。
宇治橋はじめ20年ごとの式年遷宮には、1万3000千本ものヒノキを用いる。最大の太さはの木は御正殿の扉になるもので直径が1.2mが必要だが、一枚板が取れるような木は入手不可能で、1929年(昭和4)年の式年遷宮を最後に一枚板ではなくなり張り合わせているそうだ。
神宮の式年遷宮は飛鳥時代に「天武天皇が定め、持統天皇の治世690年に第1回が行われた。そのご、戦国時代の120年におよぶ中断を乗り越え、1300年にわたって61回の遷宮が繰りかえされて来た。
この間、制度誕生と変わらない慣習を守り続けているといわれると思われがちだが、実はそうではない。時代の変化に翻弄されながらも、より良い方法を探りながら自ら変化しつつ、その上で信仰や文化を連綿と継承そ続けたのである。人口減少、少子高齢化が進行する中、新政権は動揺が収まらない建設業界にさらなる変革を求めている。式年遷宮同様、建設業も日本に不可欠の存在として。将来のために新たな橋を架け、永続させなければならない。(2010年1月3日・日・建通新聞より抜粋)