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電気の供給は日本の民主主義を守るための仕事

掲載時期は忘れたが、電気新聞に、作家の曽野綾子さんと、中部電力・三田敏雄会長の対談が載っていた。

三田会長の持論は「会社は社会と調和し、常に顧客や市場、会社と共にある」が「私たちの会社に対し、残念ながら今の社会の受け止めは厳しい。一生懸命に汗を流しているにもかかわらず、なかなか理解されないことに、社員には大きな心の負担がある」と語る。曽野綾子さんは「その答えは簡単。理解されると思うな。自分が役割を果たしているのなら、理解されることを期待してはいけない」と!!

人間の生き方についえて著作が多く、ダムや揚水発電所を取材小説も物した曽野さんは答えた。丁寧に説明する機会を作ることも大切だが、そもそも理解されると思うことが甘い」とも答えた。 ⇒ 三田会長は「きちんとやり通すことで、信念を貫けーと受け止めた。「電気の供給は、日本の民主主義を守るための仕事。民主主義を保ちたいなら、問答無用に働く。誰が何を言おうと、神様仏様が見ていらっしゃれば、それでいい」と曽野さん。

聖書には「神は隠れたところにあって、隠れたものを見ている」とう言語もあるそうだ。「安定供給を果たすことが最大の使命と、社員は分かっている。やり遂げることが大切」「日本流に言えば、お天道さまはちゃんと見ていらっしゃる」と三田会長は納得するも、焦燥感にとらわれがちな、緊張の日々が続く。(電気新聞「焦点」から引用)

個別記事|Posted 2014.10.31|

徳川歴代将軍の誕生日と、慶応4年4月1日(1868年)江戸城無血開場

第1代・徳川家康(1542年12月26日生) : 第 9代・徳川家重(1711年12月21日生)
第2代・徳川秀忠(1579年 4月 7日生) : 第10第・徳川家治(1737年 5月22日生)
第3代・徳川家光(1604年 7月19日生) : 第11代・徳川家斉(1773年10月 5日生)
第4代・徳川家綱(1641年 8月 3日生) : 第12代・徳川家慶(1973年 5月14日生)
第5代・徳川綱吉(1646年 1月 8日生) : 第13代・徳川家定(1824年 4月 8日生)
第6代・徳川家宣(1662年 4月25日生) : 第14代・徳川家茂(1846年 5月24日生)
第7代・徳川家継(1709年 7月 3日生) : 第15第・徳川慶喜)1837年 9月29日生)
第8代・徳川吉宗(1684年10月21日生) :

慶応4年4月11日・江戸城無血会場・勝海舟の談話にあるように、勝海舟と西郷隆盛との会談により江戸城の無血開城が実現したという誰もが知っている常識と言ってもいい。NHKの番組で述べているような天璋院篤姫の西郷隆盛宛の手紙が江戸城無血開城に大きな役割を果たした

個別記事|Posted 2010.12.20|

名古屋開府400年・徳川宗春

 ときは、江戸の半ば。尾張の国に風変わりな殿さまがいた。徳川宗春がその人だ。藩主としての初名古屋入りでは、」かごを使わずに馬に乗り、水色のずきんにべっ甲の丸笠をかぶっていた。藩士はもちろん領民の度肝を抜いた。芝居や踊りを奨励し、名古屋の町は大賑わい。「名古屋の繁華に興(京)がさめた」といわれたほど”芸どころ”の礎を築いた宗春の登場により名古屋は都市として飛躍を見せた。今年(2010年)開府から400年を迎えた名古屋だが、いまひとつ元気が無い。沈滞ムードを吹き飛ばそうと大衆演劇祭「風流大名、徳川宗春」公演など多彩な400年行事が繰り広げられる。

宗春とは、尾張藩七代藩主。三代藩主綱誠の20男として1696年(元禄9年)に誕生。1703年、兄継友の急死により、藩主となる。 武士の芝居見物を自由化し、名古屋に芝居小屋が並ぶようになり、遊郭も許可したことで、三町に遊郭ができあがった。名古屋は人が集まって商売が盛んとなり、隆盛を極めた。その一方、突然の娯楽により、風土の悪化を招いた上、藩の財政が赤字化。綱紀粛正に転じたが、倹約主義、緊縮政策の将軍吉宗の怒りに触れ、1739年隠居謹慎を命じられた。その後。1764年に死去するまで幽閉される。「慈」と「仁」を柱にした「温故政策」を著した。町に出る時に、赤い着物を着て白い牛に乗った奇妙な格好で出掛けたことでも知られる。       2010年3月7日・中日新聞より

個別記事|Posted 2010.3.10|

式年遷宮「今、改革のときー未来のために」

神宮式年遷宮を4年後に控えた2009年11月3日、宇治橋渡染式が行われた。式年遷宮と同様、20年ごとに宇治橋を架け替えるのは、明治の時代になってからだ、1949年に予定した第59回式年遷宮が、戦後の窮状もあり延期される中、宇治橋だけは架け替えられた。その後59回は4年後に斉行され、以来、宇治橋は遷宮の4年前に架け替えられている。大工の作業を分散するとともに遷宮への興味を高める役割を果たしている。

宇治橋はじめ20年ごとの式年遷宮には、1万3000千本ものヒノキを用いる。最大の太さはの木は御正殿の扉になるもので直径が1.2mが必要だが、一枚板が取れるような木は入手不可能で、1929年(昭和4)年の式年遷宮を最後に一枚板ではなくなり張り合わせているそうだ。

神宮の式年遷宮は飛鳥時代に「天武天皇が定め、持統天皇の治世690年に第1回が行われた。そのご、戦国時代の120年におよぶ中断を乗り越え、1300年にわたって61回の遷宮が繰りかえされて来た。
この間、制度誕生と変わらない慣習を守り続けているといわれると思われがちだが、実はそうではない。時代の変化に翻弄されながらも、より良い方法を探りながら自ら変化しつつ、その上で信仰や文化を連綿と継承そ続けたのである。人口減少、少子高齢化が進行する中、新政権は動揺が収まらない建設業界にさらなる変革を求めている。式年遷宮同様、建設業も日本に不可欠の存在として。将来のために新たな橋を架け、永続させなければならない。(2010年1月3日・日・建通新聞より抜粋)

個別記事|Posted 2010.1.3|

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