話の広場
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クリスマスはイエスの誕生日? (社会学者 橋爪大三郎)

12月24日がイブで、25日がクリスマス。
この関係が、子供心に意味不明だった。イエスはいったいいつ生まれたのだろう?  聖書を勉強して思った。ユダヤ歴では日没を境に翌日だ。それを午前0時で区切ったから、イブと25日に分かれたのでは。あと分かったこと。福音書に、12月25日に生まれたとは書いてない。クリスマスがイエスの誕生日だとは。どこにも書いてないのだ。

じゃ-クリスマスは何なのか。詳しい本によると、クリスマスはもともと冬至だったらしい。ミトラ教という宗教の、冬至に死んでまた生まれる神のお祭りが人気だった。新興のキリスト教はそれにぶつけて、12月25日を「イエスの誕生日」にして祝うようになった。 ともかくクリスマスは、キリスト教の祝日に定着した。

ギリシャ正教では1月7日に祝う。ユリウス歴12月25日にあたる日である。教会の最初は待隆節(アドベント)、クリスマスまでの四週間だ。→感謝祭(11月第四木曜)→クリスマスの順に寒くなる。

日本ではハロウイーンが終わるとすぐにクリスマス商戦に突入。奇妙な感じだ。 クリスマスは「キリスト教的」ではないから、祝わないプロテスタント教会も多かった。クリスマスツリーは古いヨーロッパの俗信で、異教的。日本人のイメージするクリスマスのスタイルは、ニューヨークのデパートが広めたとも言う。

クリスマスもバレンタインデーのように、商業主義が広まっただけのものなら、イエス・キリストと無関係に、デートスポットでデイナーを予約するカップルはが、クリスマスをいちばん正しく理解しているのかもしれない。(引用・日本経済新聞「明日への話題」2017.12.19)

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恵那・岩村城に信長の叔母が城主に・・・(鎌倉時代)

岐阜県恵那市の岩村城には戦国時代、女性が城主を努めた時期があった。NHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主な舞台である遠州(現在の静岡県)とも連携し、美濃の「女城主の里」で観光客を呼び込もうとしている。名古屋駅から電車で90分。

岐阜県第三セクター、明智鉄道の岩村駅から古い街並みを一キロあまり歩くと「岩村城跡」が見えてくる。織田信長の叔母「おつや」が16世紀後半に城主となったと伝わる城のあとだ。

岩村城は、鎌倉時代中期に築かれたと伝えられる山城、霧が城の別名もある。高取城(奈良県)、備中松山城(岡山県)と並ぶ日本三大山城の一つとされる。武田信玄の家臣だった秋山虎影に攻められた際、病死した夫の城主、遠山景任の後を継いだのが織田信長の叔母「お直」だった(諸説ある)。江戸時代は松平氏の居城となり、明治維新後、解体された。

近年、岩村城を含めた恵那市への観光客は374万人を超えた。(このホームぺの管理者は、若い時、某劇団の団員として岩村城の跡地で合宿をした。城の跡地にあった夫婦松は見事であった)

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台湾での「2・28」事件

70年前(1947年)、鬱積(うっせき)していた中国国民党政権への不満が各地で反政府活動として火を噴き、それを国民党政権は厳しく弾圧した。当時の緊迫した情勢を描いた1989年の映画「非情城一」で広く知られるようになった。

▼国民党による独裁体制の下にあって、事件は長らくタブーとされていた。いまも真相は十分に究明されたとはいえない面がある。たとえば犠牲者の数。当局は18,000人~28,000人とする推計を明らかにしたことがある。だが、実際には10万人におよんだとの声や、逆に、1万人に達していないという見方が出ている。

▼とりわけ解明が進んでいないのは当局の動きのようだ。先週(2017年2月20日の週)、蔡 英文総統は「被害者だけがいて加害者のいない現状は改めなくてはいけない」と述べ、かって「白色テロ」の追及に意欲を示した。関連する公文書の機密解除につとめる考えも明らかにした。過去と向き合い、人々の和解をめざす取り組み、と、いえようか。

▼いうまでもないが、歴史の検証はもとになる資料があってこそだ。当局が公文書を残していなければ、難しくなる。ひるがえって日本である。自衛隊の南スーダン派遣部隊の日報をめぐるドタバタ。大阪府豊中市の国有地の売却に関する交渉記録の破棄。歴史の検証に堪えようという気概は、霞が関から伝わってこない。 (2017年2月28日・日本経済新聞・春秋)

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元号 世相を映す(元号に基づく 漢字の2文字が原則)

元号は古代中国で、天子(王)が時間を支配するとされたことから成立した制度。皇帝や王が時間を支配することから成立した制度。皇帝や王が治世の最初の年を「元年」と定めて、そこから「何帝(または王)の何年」のように年を数えた。最初の元号は前漢の武帝が年号を建てて「建元」元年(西暦前140年)と定めたのが始まりとされる。元祖の中国は清朝を最後に元号を使っていない。「大化の改新」があった645年から用いられた「大化」の元号が日本最古とされる。これまでに247回の元号が使われた。日本では、同じ元号が2度使われたことはない。


天皇一代に元号は一つという「一世一元」の制度は明治時代から始まった。それ以前は天災や疫病が起こったり、おめでたい兆しが表れたときに、同じ天皇でも元号を改めることがあった。元号は古代中国の影響を大きく受けている。例えば、平成は「史記」五帝本記の「内平らかに外成る」、「書経」の「地平らかに天なる」との記述から文字が取られた。 「国の内外、天地ともに平和が達成される」という意味で、当時の世相を反映した元号となった。 1974年大平内閣で元号法が 制定された。わずか2つの項からなり、「元号は、政令で定める」「元号は、皇位継承があった場合に限り改める」とされている 。

平成の元号は①国民の理想としてふさわしいような、よい意味をもつもの②漢字2文字であること③書きやすいこと④読みやすいこと⑤これまでに元号または贈り名として用いられたものでないこと⑥俗用されているものでないこと・・・という6つの方針にのっとって選ばれた。

戦後、新憲法の施行に伴って旧皇室典範が廃止されて以来、元号は法律的根拠を失った。その後も国民は元号を変わりなく使ったが、法律上は「慣習として使っている」にすぎなかった。保守系団体が元号法制化の働きかけを強め、自民党が呼応した。元号により紀年法に法的根拠を与え、制定当時は「戦後史の一つの節目」との評価もあった。年の途中で改元すれば、元号を使う公文書やカレンダー、硬貨への表記に影響がでる。昭和から平成への移行では、硬貨に新元号を刻印する機械の準備に時間がかかり「昭和64年」も使用した。

政府は2019年1月から新たな元号を適用する案を検討。準備期間を設けて混乱を少なくするため、新元号を早ければ2018年前半にも公表することを探る。日本がめざす理念や国民の願望を漢字で表すとどうなるかを考えてみると、新元号に近づくかもしれない。これまでに元号に用いられた漢字は72文字で、予測のヒントになりうる。

247の元号のうち、4文字は5回、ほかはすべて2文字だった。最も多いのが「永」の29回、「元」「天」の27回、「遅」の21回、平成の「成」は新規で、「平」は12回目の登場だった。以前候補に挙がったものや、これまでに用いられた漢字の新たな組み合わせで新元号が決まる可能性もある。 【元号法第一項・元号は政令でさだめる。第二項・元号は皇位の継承があった場合に限り改める】(2017年1月22日・日本経済新聞から)

個別ページへ |Posted 2017.3.6|

【 障子を開けよ、外は広いぞ 】豊田佐吉の言葉(2017年は生誕150年)

中国最大の都市、上海、市街地を貫くように流れる黄浦江から西に10キロメートルほど移動すると、こじんまりした、れんが作りの建物が目に入る。周辺は集合住宅や庶民的な構えの飲食店が並ぶありふれた街並みだが、ここはおよそ1世紀ほど前に豊田佐吉氏が「豊田紡織廠」を構えた跡地だ。1918年、日本の紡織会社の間で中国進出が盛んになった。佐吉も進出を企てるが、周囲は慎重な姿勢を崩さない。

佐吉は、「(中国は)古い友人で、格別の人間関係をもたねばならない」と力説。そうしてこう諭した。【障子を開けてみろ、外は広いぞ】初めての海外事業は失敗のリスクも大きいが、佐吉は腹をくくる。上海郊外の旧フランス租界に邸宅を構え、まず個人事業として紡織工場の建設に熱中した。学生のころから目をかけた右腕の「西川秋次氏」も呼び寄せ、経営体制を整備。製造した綿糸布は中国に加えシンガポールなどにも輸出した。

佐吉は1930年に亡くなるが、西川氏が意志を継ぎ、1930年代半ばには上海工場は日本の工場を上回ってグループ最大規模になる。ここで出た利益は自動車事業の立上げにも役立ち、戦後も中国の紡織業復興に向けて、民間レベルで日中親善を実現してみせた。現在、トヨタ自動車は海外26カ国・地域で50以上の生産拠点を設け、トヨタ車の販売は170カ国・地域を超えている。

豊田綱領が掲げる「産業報国」は「進出した地域・町いちばんの企業になる」という言葉に置き換えられた。世界的に保護主義の色合いがじわりと濃くなるが、その真価が改めて問われようとしている。(2017年2月10日経新聞) このHP管理者は6年前に現地を訪問。中国政府によりこの記念館の取壊しが宣言されたと聞く。が、多くの民衆の声で現存している。

個別ページへ |Posted 2017.2.11|

ゴルフのロリー・マキロイが東京オリンピックに出場しない

世界のゴルフ界で有名選手「ロリー・マキロイ」選手が、東京五輪い参加しないと表明した。ジカ熱への感染を懸念してスター級がほとんど出なかったリオ五輪に続き、凡戦を見せられるのかとがっかりである。日本経済新聞に「個人の選択なので尊重してほしい」とコメントが来た。

日本の衛生状態はブラジルほど心配はいらないぞ!とブツブツ言っていたら、事情は全然違った。マキロイ選手は英国とアイルランドの二重国籍。リオ五輪ではアイルアランドから出ると決めたが、金メダル候補に逃げられた英国でかなり悪く言われたらしい。嫌気がさしてジカ熱を理由に出場を取りやめたというのが真相だ。

したがって、 五輪参加が国単位である限り出場する気はないそうだ。大会ごとに国籍を変える渡り鳥選手ならともかく、生まれつき二重国籍なのは彼の罪ではない。五輪憲章には「選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と書いてある。メダル競争に奔走する国が多いせいで、居場所を失う選手がいるのは残念だ。だから、二重国籍に目くじらを立てるべきでないと書くと、異論を唱える人が多いだろうが、二重国籍気嫌いの愛国者であればあるほど東京五輪が低調でよいとは言うまい。

ゴルフは特定国に有力選手が偏りがちで、世界ランク30位までに米国選手が12人も入っている。国別の参加枠を取り払い、個人参加にした方が絶対盛り上がる。(2017年1月16日・日本経済新聞「春秋」)

個別ページへ |Posted 2017.1.23|