話の広場
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ロンドンオリンピック・ラジオ放送の臨場感 (佐伯一麦氏 投稿記事)

ロンドンオリンピックも、はや終盤戦(17日間・日本時間の2012年8月13日朝終了)。中継が深夜となってしまうので、もっぱらラジオ放送で観戦している。震災以来、余震が起こる度に、震度を確認するためラジオを点けたことがきっかけとなり、枕元に置かれる習慣となった。ラジオで臨場感が伝わるだろうか、とははじめは半信半疑だったが、テレビとは違った観戦の愉しみに気付かされた。(2012年・日本のメダル獲得数は過去最多の38個)

例えば、メダルラッシュで沸いた水泳100メートルの種目のスタート前の実況では、こんあ説明がなされる。「放送席から向かって向こう側が1コース、手前が8コース。選手たちは左から飛び込んで右に泳いでいきます。そして50メートル泳いでターンして、再び右から左に戻ってきてフイニッシュとなります」それによって、寝床にいるこちらも、会場のアナウンサーと同じ位置からプールに目を向けている心地となる。テレビのように、選手たちの泳ぎが、スタートの瞬間を捉える望遠カメラや各泳者のり力泳を追尾する移動カメラ、ターンシーンを撮る水中カメラ・・・・・と多くのカメラを駆使して精細に伝えられるわけではない。

だが、選手たちを取り巻いている空間のパースペクティブは、音と描写に頼ったラジオのほうが、身体的な親しみを帯びて想像されるように感じられたのである。最近、作家志望の若い人たちの創作をいくつか読む機会があった。そこで、ストーリーはあっても、描写や比喩がほとんどない、という共通点に驚かされた。メールや携帯電話によるコミュニケーション、そして映像による状況説明に慣れていることが理由だろうが、ラジオ観戦によって、言葉による描写の効用を改めて思わされた。
(2012年8月11日・日本経済新聞の夕刊より)

個別ページへ |Posted 2012.8.13|

民衆のために生きた土木技術者たち(明治から昭和に掛けて)

◆青山 士は一校時代内村鑑三に深く傾倒し、彼の勧めで東京帝大工科大学に入学、廣井 勇に学んだ。卒業すると「生涯に一つでも人類のためになるような仕事をしてから死にたい」とパナマ運河工事に参加するために単身アメリカに渡った。「神の見捨てた地獄」と言われたジャングルでの運河掘削工事は過酷を極めた。 最初ポール持ちとして採用された彼は、1年後には測量技師補。3年後には測量技師、6年後には生命線であるガッツ閘門の設計部に抜擢された。しかしその翌年、スパイと疑われ、突然辞表を出して帰国した。しかし現場では「仕事・技量ぶりともに最優秀であった」と高く評価されていた。彼は帰国後、20世紀最大の事業と言われた荒川放水路工事の最重要最難関の岩淵水門を建設、東京を常習的な洪水氾濫から救った。かって信濃川は洪水氾濫が多く、越後平野の農民は「子女を売る」ほどの苦しみに耐えていた。江戸時代から分水計画が立てられたが、明治29年の未曾有の大洪水を契機として、明治42年内務省の直轄工事として着手された。分水路は大正12年に完成し、農民の200年に渡る悲願が達成された。

◆ところが、昭和2年、流量調節を願う自在堰の陥没事故が発生、越後平野が干上がった、そこで若きエース宮本武之輔が新可動堰の建設に当たることになる。 彼は小学校の頃父親が事業で失敗し、全財産を失って、一家が離散した。彼は中学に進学できず、瀬戸内航路の貨客船のボーイとなって家計を助けた。この悲運の体験が終生「弱者の味方」に立たせることになった。昭和3年1月、新しい可動堰の建設が開始され、工事が終わりに近づいた昭和5年7月末、猛烈な集中豪雨に襲われた。氾濫の危機が迫り、宮本は村民を守るか建設現場を守るかの苦しい選択を迫られ。彼は村民を守るために仮め締切りを切れ!と命じた。完成間近の建設現場は惨憺たる有様となった。こうした苦難を経て新しい可動堰は昭和6年に竣工した。以来、信濃川は2度と牙をむくことなく、越後平野は日本の代表的な米作り地帯と生まれ変り、農民たちは苦しみから救われた。

◆台湾でただ一つ日本人の銅像がある。八田與一の銅像である。彼はユニークな発想をする学生であった。東京帝国大学を卒業すると直ちに日本統治後15年の台湾へ渡り、台湾総督府の土木局に入った。 台湾最大の嘉南平野は洪水、干魃、塩害の三重苦が支配する不毛の大地であった。彼は農民が想像を絶する苦難の中にいる姿を見て、嘉南平野を灌漑する計画を立てた。しかしこの広大な平原を潤すには水量が足りなかったので、彼は平原を3区画に分けて嘉南の人々が等しく水の恵みを受けられるように「3年輪作給水法」を考えた。この雄大な嘉南大圳計画は大正9年に着工され、世界でも珍しいセミ・ハイドロリックフイル工法(湿式工法の土延堤)の烏山頭ダムと、総延長が地球を半周する長さの給排水路を嘉南平原に張り巡らす工事が開始された。昭和5年、世界で3番目の巨大なダムが完成し、その水が給排水路を流れて嘉南平原を隅々まで潤していった。不毛の大地の嘉南平原は台湾最大の穀倉地帯に変貌し、60万人の人々が救われた。人々は彼を嘉南大圳の父と仰ぎ、彼が工事中によく地面に腰を下ろして髪をいじくっていた姿の銅像をたてた。昭和17年5月8日、彼はフイリピンの灌漑計画の調査のために、広島の宇部から大洋丸にに乗り込んだ。その大洋丸が東シナ海を航行中、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。嘉南の人々は日本式の墓を作って埋葬し、今なお命日に追悼式を行っている。

◆民衆のための血の通った土木技師は、何時までも人々の心の中で生き続けていくのである。(大成建設株式会社が作成したビデオの解説から引用・大成建設の社名の由来は昔、大倉喜八郎が経営する大倉土木と称していた。その後、大倉喜八郎の法名が「大成」であったことから、大成建設となった)

個別ページへ |Posted 2012.4.17|

台湾を農業国にした八田與一 : 歴史から何を学ぶ

烏山頭ダム 戦前、日本人が悪いことだけでなく、良いことも行ってきたことを八田與一技師が証明している。日本の50年間に及ぶ台湾統治におけるインフラ整備には、莫大な資金と優秀な人材が多く投入されている。当然、嘉南大圳もその一つに過ぎない、進歩的文化人と自称する人達は、嘉南大圳を「日本の利益のために造ったのであって、台湾人のためではない。八田技師は資本家のために働いた技師であり評価することはない」と言う。しかし、嘉南大圳の恩恵や八田技師その人を最もよくしっているのは、進歩的文化人と自称する人たちではなく、現地で生活した水の恩恵を受けている台湾人その人達である。

また、この他にも満州や朝鮮で地域のインフラ整備に資本と技術力をつぎ込んだ例はいくらでもある。戦前の満州で貯水量125億トン琵琶湖に匹敵する人造湖を持つ豊満ダムを造り、中国東北地方の治水と電力供給に寄与し、一大工業地帯に変貌させた事実・朝鮮の鴨緑江に貯水量76億トン、発電量70万キロワットの当時世界最大の発電量を誇る水豊ダムをつくり、北朝鮮の工業化に寄与せしめた事実。また文化面ではフイリピンのマニラ郊外にあるラス・ピニャス教会に現存する世界で唯一のバンブーパイプオルガンが、大東亜戦争中、日本軍によって守られ、1942年には日本軍政部が費用を出して分解修理し、今日でも現地に感謝されて使われている事実。しかしこれらの光の部分が正しく報道され、日本国民に知らされることはほとんどない。

影の部分を直視し正確にしる知ることも大切なことであると同時に、光の部分も同じようにしる必要がある。偏った歴史教育、いわゆる影の部分ばかりを強調する自虐史観教育や報道からは、心豊で世界に貢献する誇りある日本人は育たない。公に奉仕し、人類のために尽くす人材を育成することが、これから日本にとっては急務である。八田技師の考え方や生き方ない学び、21世紀を担う若人の中から、現地の人々から慕われる第二、第三の八田技師が育つことを願ってやまない。
(このHP管理者遠山の友人:作家・古川勝三氏の「台湾を愛した日本人」著書の講演記録解説から)

個別ページへ |Posted 2012.3.14|