話の広場
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新婚の頃  元警視総監 池田 克彦

新婚の頃は本当にお金がなかった。出張の費用を一時立て替えるお金がなかった時もあったほどだ。唯一の娯楽は、土曜の夜に、妻と一緒に近くの名画座に行き、かつての名作映画をみることだった。ただ、これがその後の仕事に結構役たった。例えば、「シエーンという西武劇の古典がある。私以上の年代であれば、観ていないまでも名前くらいは知っている。

そこで、講習などでこんな話をする。「シエーンというのはアイルランド系の名前です。つまり、彼はアイルランド移民なんです。アイルランド移民は遅れてやってきた移民で、なかなかいい仕事には就けませんでした。だから、彼は流れものの牧童とガンマンをやっていたわけです。こういう前提がわかれば映画は一段と面白くなるでしょう。捜査情報でも公安情報でも、情報を額面通り受け取るだけでなく、その裏を読み取ることが大切です」

また、給料が安いわりに残業が多かった。一人でまっている妻も辛いだろう。そこで、夜遅く帰る時は、途中のコンビニでチョコレートやキャンデイをお土産として買っていた。200円か300円ぐらいのものだが、妻は大変喜んでくれた。そこで、私はプレゼント三原則を知った。①プレゼントは無条件にうれしい。②プレゼントに金額は関係ない。③プレゼントは実用的なものだと外れがない。

先日、結婚して遠方に住む娘が。父の日のプレゼントとして下着を2枚送ってきてくれた。とてもうれしかったが、そのとき気づいた。娘もプレゼント三原則を知っていることを。確かに、子供は親の背中を見て育つのかもしれない。(日本経済新聞/明日への話題2018.09.26)

個別ページへ |Posted 2018.10.8|

あすへの話題 (作家・・江波戸 哲夫)

「我が家は夫も息子もトイレでの立ちションはご法度です」
先日のバラエティ番組で、某ママ・タレントが胸を張ってこう言うのをみた。近年、若い母親のこの種の発言をよく耳にする。ションのしぶきが立って便器や壁が汚れ、匂うからだそうだ。その度に私は「なんだかなあ」と思う。ションの作法は、犬のオス・メスで違っているように、動物によって大いにセクシャリティ=性のあり様に関わっている。

LGBTなんて言葉が生まれるずっと以前にL(レズ)の機関紙で男役の人が「ああ、立ちションをしてみたい」と切望している投稿を見て、目からウロコが落ちた。ママ・タレが嫌う立ちションは男役には憧れの”男性・性”なのだ。女児、男児両方育てた親ならたいていは知っているだろう。多くの男児が、生来、乱暴に動き回り大声を上げ、衣服を汚し、女児より扱いにくいのを。

ところが最近の若い母親や学校はそれを嫌い、一日中たしなめている。「静かにしなさい」、「走り回らないように」、「そんんな汚いものには触らない」と。寄ってたかって男児生来の”男性・生”を薄めようとしているのだ、そこに「立ちションはさせない」まで加わった。”男性・性”が薄められた「草食男子」はますます多くなるだろう。脱乱暴、脱大声、脱汚れ・・・は、成熟社会では「正義」かもしれない。しかし草食男子がふえすぎることに不安を覚えるなら、母親にも学校にも何か工夫の余地があるのではないだろうか?(日経新聞2018.07.19)

個別ページへ |Posted 2018.8.13|

夏太りを招く意外な理由とは?

理由1:夏は「糖質が多い」食事が多くなる
夏になると、そうめんや冷やし中華などの冷たい麺類や、アイスやかき氷など食べてしまいませんか?夏についつい食べてしまうこれらの「食べ物」は、太る原因となる「糖質」がたっぷり。こうした夏特有の「糖質の多い食生活」が「太り」を招くのです。そうめん一束の糖質量・35g、めんつゆ(100g)糖質9g。この糖質量は角砂糖14.6個分です。

理由2:夏は運動量が減る
夏は暑く、熱中症の心配もあるため、ウオーキングなど、屋外での運動を避けてしまいがちです。普段は通勤などで歩く習慣がある人も、汗や日焼けなどが気になるため、車やバスでの移動に変えてしまうことも多いのではないでしょうか?こうして運動が減ると、エネルギーの消費量も減ります。同じ量を食べてもエネルギーが減るので、夏太りしてしまうのです。
(シックスセンスラボ(株)のマガジンから)

個別ページへ |Posted 2018.7.12|

元台湾総統・李登輝氏「日本人よ、後藤新平の心を取り戻せ」(NEWSポストセブンから)

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かつて日本が世界へ雄飛し始めた頃、日本人には高潔な精神があった。内向きになったと言われる今はどうか。新たな年を迎え、台湾の元総統、李登輝氏(94)が未来を担う日本人に訴える。2014年、私はウェッジから『李登輝より日本へ贈る言葉』という本を出版した。その第7章には「これからの世界と日本」と章題を付けたが、これは日本や台湾が直面している混沌とした国際情勢にいかにして立ち向かっていくべきか、など日頃から考えていることを書いたものだ。

この本が出版されて3年以上が経った。しかしこの間、国際社会には日本を悩ます難題が山積し続け、不透明感が増し、情勢はむしろますます激変を続けているといえる。こうした混沌とした時代、さまざまな課題を抱える今の日本に必要なものは何か。

私はそれが「人生の先生」と仰ぐ後藤新平の精神だと考えるのである。

2007年5月、私は家族とともに日本を訪れ「奥の細道」を散策する機会を得た。ただ、この訪日にはもう一つの目的があった。この年、藤原書店が創設した「後藤新平賞」の第1回受賞者に光栄にも選ばれ、授賞式に出席することになったのである。授賞式の席上、私は「後藤新平と私」と題した記念講演を行い、「後藤は私の先生です」と述べた。とはいえ、第4代・児玉源太郎総督のもとで民政長官として後藤が辣腕をふるっていた時期に、私はまだ生まれていない。

後藤は1857年生まれ。1923年生まれの私が生きてきた時代とは大きな開きがあるのだ。そのため後藤と私との間に空間的なつながりはあるものの、お互いを結びつける交差点は見当たらない。しかしながら、後藤の生い立ちや、その後の台湾における輝かしい業績を辿ることにより、私は計り知れない人間的な偉大さを感じ、自分自身に深く滲みこんでいるものを感じるのである。

◆9年で「一世紀にも等しい」発展を果たした
台湾1895年の下関条約で台湾は清朝から日本へ割譲された。初代総督の樺山資紀から第3代の乃木希典まで、台湾の開発は端緒についたばかりであった。1898年、第4代台湾総督として児玉が発令を受けると、児玉源太郎は後藤をナンバー2の地位にあたる民政局長(後の民政長官)に起用する。

後藤はもともと医師出身の内務官僚だったが、日清戦争後の大量の帰還兵士23万人の検疫を見事にやり遂げ、その行政手腕が児玉源太郎の目に留まったのである。その後、民政長官として在任した9年あまりの間、後藤は指導者としての力量を遺憾なく発揮し、台湾は未開発社会から近代社会へと、「一世紀にも等しい」と言われるほどの開発と発展を遂げることになる。当時の台湾は匪賊が跳梁跋扈して治安が悪く、マラリアをはじめとする疫病が蔓延する危険な地であった。のみならず、アヘン吸引者も多く、産業にみるべきものもなく、まさに未開発の状態だった。

そこでまず後藤が着手したのが人事刷新の断行であった。着任するや高等官以下1080名の禄を食むばかりで仕事をしない官吏を更迭し、日本内地へ送り返すとともに、新渡戸稲造をはじめとする優秀な人材を幅広く台湾へ呼び寄せたのである。続けて台湾の産業発展の基礎となる公共衛生の改善、台湾経営の財源確保のための事業公債発行、台湾北部の基隆と南部の高雄を結ぶ縦貫鉄道の建設、基隆港の築港を進めた。

そしてこれらのインフラ整備を完成させると、砂糖、樟脳などに代表される具体的な産業開発と奨励をしたことで、台湾の経済発展の軌道を定めたのである。私が幼いころ、家は地主で、父は組合長も務めていた。祖父はお茶畑を持ってお茶を作りながら、同時に自治会長にあたる「保正」でもあった。清朝時代から続いてきた集落の自治制度である保甲制度(*)は、後藤がそのまま存続させた。台湾が日本の領土となっても、台湾の人々に無理のない「生物学的見地」からの統治を考えた人でもあったともいえるだろう。

【10戸で1甲、10甲で1保とした自治組織。役員として、甲には「甲長」、保には「保正」が置かれた。】

◆天皇・国家のために尽くす
今日の台湾の繁栄は後藤が築いた基礎の上にあるといえる。この基礎の上に新しい台湾を築き、民主化を促進した私は、後藤とも無縁ではないと思っている。つまり、時間的な交差点はなくとも、空間的には強いつながりを持っているだけでなく、後藤新平と私個人の間には精神的な深いつながりがあるのである。

政治家には二種類の人間がいると言われる。まずは権力掌握を目的とする者、そして、仕事を目的とする者だ。権力にとらわれない政治家は堕落しない。私は総統時代に指導者の条件として、「いつでも権力を放棄すべし」を自らに課し自制していた。

普通の人が権力を持った時、非常に幸福であり、快楽であると思うことが多い。それはやりたい放題で、なんでもできるからだ。しかし、後藤は明らかに後者、つまり、仕事のために権力を持った人であった。私と後藤に共通するのは「信念」であったといえる。私はクリスチャンで、信仰を通じて最終的に見出した私自身のあり方が「我是不是我的我」、つまり「私は私でない私」であった。

この言葉は、新約聖書のなかにある「ガラテヤの信徒への手紙」の「生きているのは、もはや、私ではない。キリストが、私のうちに生きておられるのである(後略)」という一節からきている。つまり私、李登輝のなかに神が息づいていて、自分のためだけでなく公のために生きなくてはならない、ということである。一方で、後藤の信仰は何だったかというと私は寡聞にして知らない。しかし、おそらく「天皇」もしくは「国家」という公のために尽くすという「信念」があったのだろうと推察する。だからこそ、第4代台湾総督の児玉源太郎から片腕として信頼され、台湾の近代化をやってのけたのである。

そうした意味で、私はクリスチャンではあるものの、強い信仰心、信念を持って事に当たっていくという意味では、後藤は私の先生であると言えるのである。国家の浮沈は、ひとえに指導者にかかっている。社会や個人の成功が経済や富であると考える風潮が蔓延している今こそ、指導者は「公」に尽くすことに一生を捧げた後藤の精神を学ぶべきであろう。

a1.jpg【PROFILE】李登輝
●1923年台湾生まれ。旧制台北高校、京都帝国大学農学部で学び、戦中は志願兵として高射砲部隊に配属された。終戦後、台湾大学に編入し卒業。台北市長、台湾省主席、副総統を経て1988年に総統就任。1996年に台湾初の総統直接選挙で当選し、2000年まで務める。

個別ページへ |Posted 2018.1.24|

本田 圭祐(プロサッカー選手)が小学校の時に書いた作文

ぼくは大人になったら、世界一のサッカー選手になる。世界一になるには、世界一の練習をしないとダメだ。だから 今 頑張っている。今は下手だけどれどもガンバッテって 必ず世界一になる。そして 世界一になったら 大金持ちになって ぼくは外国から呼ばれて ヨーロッパのセリエに入団します。そして レギュラーになって 10番で活躍します。

一年間の給料は40億円はほしいです。プーマとけいやくしてスパイクやジャンバーを作り 世界中に人がこのぼくの作ったスパイクやジャンバーを買っていってくれることを夢みている。一方 世界中のみんなが注目し 世界で一番さわぐ 4年に一度のWカップに出場します。

セリエAで活躍しているぼくは 日本に帰りミーティングをし 10番をもらってチームの看板です。ブラジルと決勝戦をし 2対1でブラジルを破りたいです。この得点も兄と力を合わせ 世界の強ごうをうまくかわしいいパスを出し合って得点を入れることがぼくの夢です。
(このホームページ管理者が購読している書籍から)



個別ページへ |Posted 2018.1.12|