東京出身で、芸者時代に書生演劇家の川上音二郎(1864~1911)と結婚。女優と国内外をを巡業し。、帝国女優養成所を開設。音二郎のの死後は木曽川水系の発電所建設で知られる旧知の福澤桃介(1868~1938)をパートナーとして支えた。晩年は木曽川のほとりに貞照寺を建立し他。別荘「晩松園」は国の登録有形文化財となっている。
川上貞奴の生涯を描く創作オペラにお上演にむけ、貞奴とゆかりのある各務原市の有志らが動き出した。出演、音楽、メークとすべて市民が手作りの芸術作品として、2011年、生誕140周年に初披露を目指している。実業家としても知られる貞奴は晩年。貞照寺と別荘「晩松園」を各務原市鵜沼積寺町に残した。命日に貞照寺で奉納コンサートを行うソプラの歌手、金光順子さん(同市)が中心になり、3年前からオペラの構想を温めていた。
明治・大正・昭和と近代日本の変換の中で生きた貞奴。台本を執筆する、作家、多治見市の藤本尚子さんは「スケールの大きい作品になる。バイタリティーや女性としての懊悩の部分も表現したい」と意欲を示している。オペラは3部構成で、第一部は東京・芳町で芸の道を歩み始めた芸者時代、若き福澤桃介との出会いが中心という。 2010年3月8日 中日新聞から
ときは、江戸の半ば。尾張の国に風変わりな殿さまがいた。徳川宗春がその人だ。藩主としての初名古屋入りでは、」かごを使わずに馬に乗り、水色のずきんにべっ甲の丸笠をかぶっていた。藩士はもちろん領民の度肝を抜いた。芝居や踊りを奨励し、名古屋の町は大賑わい。「名古屋の繁華に興(京)がさめた」といわれたほど”芸どころ”の礎を築いた宗春の登場により名古屋は都市として飛躍を見せた。今年(2010年)開府から400年を迎えた名古屋だが、いまひとつ元気が無い。沈滞ムードを吹き飛ばそうと大衆演劇祭「風流大名、徳川宗春」公演など多彩な400年行事が繰り広げられる。
宗春とは、尾張藩七代藩主。三代藩主綱誠の20男として1696年(元禄9年)に誕生。1703年、兄継友の急死により、藩主となる。 武士の芝居見物を自由化し、名古屋に芝居小屋が並ぶようになり、遊郭も許可したことで、三町に遊郭ができあがった。名古屋は人が集まって商売が盛んとなり、隆盛を極めた。その一方、突然の娯楽により、風土の悪化を招いた上、藩の財政が赤字化。綱紀粛正に転じたが、倹約主義、緊縮政策の将軍吉宗の怒りに触れ、1739年隠居謹慎を命じられた。その後。1764年に死去するまで幽閉される。「慈」と「仁」を柱にした「温故政策」を著した。町に出る時に、赤い着物を着て白い牛に乗った奇妙な格好で出掛けたことでも知られる。 2010年3月7日・中日新聞より
神宮式年遷宮を4年後に控えた2009年11月3日、宇治橋渡染式が行われた。式年遷宮と同様、20年ごとに宇治橋を架け替えるのは、明治の時代になってからだ、1949年に予定した第59回式年遷宮が、戦後の窮状もあり延期される中、宇治橋だけは架け替えられた。その後59回は4年後に斉行され、以来、宇治橋は遷宮の4年前に架け替えられている。大工の作業を分散するとともに遷宮への興味を高める役割を果たしている。
宇治橋はじめ20年ごとの式年遷宮には、1万3000千本ものヒノキを用いる。最大の太さはの木は御正殿の扉になるもので直径が1.2mが必要だが、一枚板が取れるような木は入手不可能で、1929年(昭和4)年の式年遷宮を最後に一枚板ではなくなり張り合わせているそうだ。
神宮の式年遷宮は飛鳥時代に「天武天皇が定め、持統天皇の治世690年に第1回が行われた。そのご、戦国時代の120年におよぶ中断を乗り越え、1300年にわたって61回の遷宮が繰りかえされて来た。
この間、制度誕生と変わらない慣習を守り続けているといわれると思われがちだが、実はそうではない。時代の変化に翻弄されながらも、より良い方法を探りながら自ら変化しつつ、その上で信仰や文化を連綿と継承そ続けたのである。人口減少、少子高齢化が進行する中、新政権は動揺が収まらない建設業界にさらなる変革を求めている。式年遷宮同様、建設業も日本に不可欠の存在として。将来のために新たな橋を架け、永続させなければならない。(2010年1月3日・日・建通新聞より抜粋)
ベルリンの壁は1961年に完成した。まさにこの壁は圧制の象徴であった。1987年東西ベルリンの境界で、アメリカのレーガン大統領が、ソ連のゴルバチョフ書記長に「この壁を取り壊すべきである」と呼びかけた。そして1989年8月23日、ハンガリーがオーストリアとの国境を撤廃した。そしてその翌月には、東ドイツから観光客が約、1万3000千人がハンガリー経由で西ドイツにに脱出した。
この頃、東ドイツの指導者ホーネッカーが辞職し、その年の10月9日、クレンツ新政権がドイツ国民の海外旅行の自由化法を制定した。これを機会に出国を求める東ドイツ国民で検問所は溢れかえった。そしてあまりの数に、、警備兵も人々の波を押し留めることができなかったのである。
そして、今からちょうど20年前(1989-11-09)、ベルリンの壁が崩壊したのである。
1989年12月25日には、ベルリンでコンサートが行われた。東西ドイツ、アメリカ、イギリス、フランス、そしてソ連の混声オーケストラと合唱団、歌手たちが、ベートーベンの「交響曲第9番 合唱」を演奏した。そして今やこの曲がEU(ヨーロッパ連合)の「国家」となっている。ソ連が崩壊しアメリカも衰退といわれる。そしてEU合衆国(27ヶ国)が出現した。2009年12月日には「リスボン条約」が承認された。
(株式会社エノク出版・エノク11月号から抜粋)
この住居は、養命酒駒ヶ根工場内遺跡より発掘された平安時代初期の住居址を復元したものである。住居の規模は、東西8.0メートル、南北7.9メートル、居間の広さは17平方メートルの隅丸方形(すみまるほうぎょう)の竪穴式住居である。
復元された建造物の高さは5メートルで入母屋式(いりもやしき)構造の古代の特徴をもっている建築様式の住居である。構造は、四本の丸柱、梁と桁は手斧による削り角、屋根は母屋梁(もやはり)の上に木舞(こまい)をかけ茅葺屋根とした。壁は板を用い杉皮を両面に張り、割小舞で押さえてある。建築設計は、日本考古学協会員友野良一氏によるものである。
神社本庁は 神宮を本宗と仰ぎ 全国の神社の総意の存するところにより 神社の興隆と道義の作興に努め 皇室を尊び 日本の歴史 伝統 文化を愛し 祖先を敬ふ 真の日本人の心を守り伝えて行くため 教化活動に等に日夜努力を致してをります
昨今の社会情勢は 精神の荒廃と共に 思想の混乱を招き まさに日本人の心が失はれようとしてをります 我が国の長い歴史の中で培われた伝統文化と 豊な自然に覆われた美しい国土を明日へ伝えて行くことこそ 今国民が等しく望むところであり これを神社本庁の大切な使命と考え さまざまな 活動に鋭意取り組んでまいる所存であります しかしこのためには 愛様方の物心両面からなるご支援と ご協力とを戴かなくては 到底目的を達成しえることではありません
(このHP管理者宛、神社本庁総長 矢田部 正巳氏の手紙から抜粋)
名古屋市の熱田神宮は、昭和10年(1935年)以来、半世紀(74年目)以上を過ぎて神宮の本殿を改修している。本殿に前に「お白石持行事」が、9月4日(金)~6日(日)にかけて行なわれた。関係者の23,000人が参加した。厳かな雰囲気の中で、こぶし大の 白い石を10,000個を本殿の前に並べていく行事。
2013年に創祀1,900年記念事業で進められてきた記念事業の一環であるそうだ。9月末には本殿の改修工事が終わる。10月10日(土)には、仮殿から三種の神器【草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)】を本殿に移す儀式が行なわれる。
このホームページ管理者は、この「お白石持行事」にお招きを頂いたので、9月5日(土)に参加をした。自分の人生の中で初めての経験である厳粛な行事、そして「天皇陛下と宮司だけが入ることを許される一番奥の神殿」まで入ることが出来たことに感謝の気持ちで一杯である。
国際ロータリー第2760地区(愛知)の、西名古屋分区大会(2009年2月19日)で、ジャーナリストの櫻井よしこ氏は『日本よ、つよき国となれ』をテーマに講演した。
「日本を取り巻く環境は厳しいが、現在の状況をコップの水に例えた場合、あと半分しかないと思わず、まだ半分もあると考えて国力とエネルギーがあるうちに水を一杯にする努力をしていただきたい。問題が山積しているが、何をすべきかという優先順位と根底にある問題を考え、対症療法ではなく根治治療することに集中していただきたい」と前置きし、世界の現状と米中間の連携強化の実態、日本への影響を説明した。
さらに、櫻井さんは「歴史を振り返ると、日本は誇りある国家であり、足跡を学ぶことによりエネルギーと勇気、英知を汲み上げ、これを現在と未来にいかしていくことが私たちの責任だと思います。ロータリンの皆さま方には会社のリーダーとしての責任自覚していただき、その自覚が実行されるときに日本は見事に再生し、国際社会をより幸せにしていくものと思います」と結び、
最後に、櫻井よしこ氏は、1920年代から1930年代の「日本、アメリカ、中国の歴史の事実」を知って欲しい。そのお勧めの一冊は、ジョン・マクマリー(1881~1960)が、1935年に書いたメモランダムを、米国海軍大学校教授、アーサーウオルドン教授加筆修正して、日本人、北岡伸一氏訳の「平和はいかにして失われたか」であると紹介した。このホームページ管理者も、歴史の事実を知るお勧めの書籍であると思う。
櫻井よしこ氏は「一般財団法人・国家基本問題研究所・理事長」
RID2760、小牧ロータリークラブは、2009年1月18日(日)地域の外国人家族と小牧市民の家族を集め、文化や習慣などの違いを学び、相互理解を深めながら例会を開催し「外国人ファミリーと絆の樹」の若木を協力して植樹し、樹には、それぞれのファミリーネーム記載した。終了後、プロサッカーチーム「名古屋グランパス」の選手10人、コーチ5人が、地域の子供たちとサッカー教室を楽しんだ。植樹祭の写真は、右後方、直前地区幹事・河村嘉男氏、右から小牧市長・中野直樹氏、ペルー共和国大使・ルイス・メンデビル・カナレス氏・左端は、このホームページ管理者の遠山堯郎 (写真提供・中日新聞)
戦前、名古屋の花柳界は検番は13検あって芸妓も、3,000人ぐらいいたそうです。「盛栄連」「廓検番」「御園検番」「中検番」「中越検番」「辰巳検番」「千種検番」「睦連」「難波連」「城西連」「舎人町(中京連)」がありました。
調査をいたしましたが、すでに当時のひとはお見えになりませんので、確証はできませんが、このうちより「7連妓」が合併し、料理学校の跡地を購入し、名古屋芸妓株式会社として発足して芸妓は株を所有し、組合員として働き、組合費と歩合を払って維持をしていたようです。が、芸妓が自分の持株を他人に売るという問題がおきて、株は、会社が全部を買い上げて、芸妓は組合員として働いてきました。
当時の、木造の検番も古くなり、昭和42年に土地の半分を売って現在のビルを建設し、パーティーを開きお祝いを頂いたりで裕福な名古屋名妓連が続きました。現在からさかのぼって考えますと、従業員も大勢いましたが、給料だけでも大変であったそうです。しかし、従業員の人数が激変しビルの維持をすることができなくなりました。
平成12年11月にビルを売却して、新生名妓連として発足、ビルの買主さんのご好意により、お稽古専用の立派な舞台をそのまま、借用して現在にいたっている。芸妓の練習内容は「三味線」「唄」「鳴り物(太鼓、小鼓、笛)がある。
芸の方は、9月は名古屋おどりに参加」することと別に、昭和33年より名鉄ホールにて名妓おどりを39回まで開催した。その後は、料亭「河文」の女将の好意で春の「料亭・河文座」を名妓まつりとして(08年は5月26日・27日)に開催、また「料亭・松楓閣」では、春と年末に「名妓まつり」として出演している。
現在は、伝統芸能振興会の後援により20名の芸妓さんが頑張っている。 この名古屋尾張の伝統文化を残したいと思うのは芸妓さんたちだけであろうか?このホームパージ管理者のひとりである。
資料提供・名妓連 安藤かつ江