話の広場
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日本のロータリークラブが国際ロータリー脱会から 復帰まで・・・

1940年、第2次世界大戦のために、日本のロータリーは、国際ロータリー(以下・RI)を脱会します。戦争が終わってしばらくたった1949年3月23日、東京ロータリークラブ(以下・RC)ができ、同年3月29日脱会前と同じ承認番号855で再登録を許可された。1940年、RIを脱会した後のRCは、例会を開催していた曜日などを名称にして、会合を続けていた。1947年3月18日、東京の工業倶楽部にそれらの有志が集まって、連絡機関の設置を決め「ロータリー復帰協議会ができた。

その後「ロータリー日本五十年史」によれば、翌年1949年3月11日、何の前触れもなく羽田に到着したミーンズは、まずダーキンと連絡をとり、そのときの小松 隆に代わってロータリー復帰協議会長となっていた手島知健と会い、また東京水曜クラブ役員とともに会見し、国際ロータリーの復帰が可能となった。復帰の条件は①現在の各曜 クラブを解散すること②国際ロータリーの定款細則を厳守すること③国際ロータリーへの義務を完全に履行すること。次に、各RCはそれぞれ国際ロータリーに直結するもので、戦前のように日本のクラブだけで一つにかたまることがないように!という注意が作られた。

最初に復帰が認められたのは、3月29日東京RC・4月5日京都RC・4月13日・大阪RC・名古屋RC・神戸RC、4月22日・福岡RC・5月7日・札幌RCの7クラブで、RI第60区を形成することになり、初代ガバナーとして東京RC手島知健が選出された。東京クラブは4月27日工業倶楽部で、その例会伝達式を行った。そこで、ミーンズから会長小林雅一にチャーターが渡された。

ここへは、首相吉田 茂も出て祝辞、GHQ総司令官マッカーサー元帥のステートメントあった。これが、戦後日本で国際団体への加入が許されてのは、宗教関係を除けばRCが最初である。その後、戦前にRIから脱退したクラブが次々に復帰し、新しいクラブの創立も相次いだ。その後日本のRCはRIの中核的な役割を担うまでになった。(ロータリーの友・2012年3月号より)

個別ページへ |Posted 2013.10.9|

ロンドンオリンピック・ラジオ放送の臨場感 (佐伯一麦氏 投稿記事)

ロンドンオリンピックも、はや終盤戦(17日間・日本時間の2012年8月13日朝終了)。中継が深夜となってしまうので、もっぱらラジオ放送で観戦している。震災以来、余震が起こる度に、震度を確認するためラジオを点けたことがきっかけとなり、枕元に置かれる習慣となった。ラジオで臨場感が伝わるだろうか、とははじめは半信半疑だったが、テレビとは違った観戦の愉しみに気付かされた。(2012年・日本のメダル獲得数は過去最多の38個)

例えば、メダルラッシュで沸いた水泳100メートルの種目のスタート前の実況では、こんあ説明がなされる。「放送席から向かって向こう側が1コース、手前が8コース。選手たちは左から飛び込んで右に泳いでいきます。そして50メートル泳いでターンして、再び右から左に戻ってきてフイニッシュとなります」それによって、寝床にいるこちらも、会場のアナウンサーと同じ位置からプールに目を向けている心地となる。テレビのように、選手たちの泳ぎが、スタートの瞬間を捉える望遠カメラや各泳者のり力泳を追尾する移動カメラ、ターンシーンを撮る水中カメラ・・・・・と多くのカメラを駆使して精細に伝えられるわけではない。

だが、選手たちを取り巻いている空間のパースペクティブは、音と描写に頼ったラジオのほうが、身体的な親しみを帯びて想像されるように感じられたのである。最近、作家志望の若い人たちの創作をいくつか読む機会があった。そこで、ストーリーはあっても、描写や比喩がほとんどない、という共通点に驚かされた。メールや携帯電話によるコミュニケーション、そして映像による状況説明に慣れていることが理由だろうが、ラジオ観戦によって、言葉による描写の効用を改めて思わされた。
(2012年8月11日・日本経済新聞の夕刊より)

個別ページへ |Posted 2012.8.13|

民衆のために生きた土木技術者たち(明治から昭和に掛けて)

◆青山 士は一校時代内村鑑三に深く傾倒し、彼の勧めで東京帝大工科大学に入学、廣井 勇に学んだ。卒業すると「生涯に一つでも人類のためになるような仕事をしてから死にたい」とパナマ運河工事に参加するために単身アメリカに渡った。「神の見捨てた地獄」と言われたジャングルでの運河掘削工事は過酷を極めた。 最初ポール持ちとして採用された彼は、1年後には測量技師補。3年後には測量技師、6年後には生命線であるガッツ閘門の設計部に抜擢された。しかしその翌年、スパイと疑われ、突然辞表を出して帰国した。しかし現場では「仕事・技量ぶりともに最優秀であった」と高く評価されていた。彼は帰国後、20世紀最大の事業と言われた荒川放水路工事の最重要最難関の岩淵水門を建設、東京を常習的な洪水氾濫から救った。かって信濃川は洪水氾濫が多く、越後平野の農民は「子女を売る」ほどの苦しみに耐えていた。江戸時代から分水計画が立てられたが、明治29年の未曾有の大洪水を契機として、明治42年内務省の直轄工事として着手された。分水路は大正12年に完成し、農民の200年に渡る悲願が達成された。

◆ところが、昭和2年、流量調節を願う自在堰の陥没事故が発生、越後平野が干上がった、そこで若きエース宮本武之輔が新可動堰の建設に当たることになる。 彼は小学校の頃父親が事業で失敗し、全財産を失って、一家が離散した。彼は中学に進学できず、瀬戸内航路の貨客船のボーイとなって家計を助けた。この悲運の体験が終生「弱者の味方」に立たせることになった。昭和3年1月、新しい可動堰の建設が開始され、工事が終わりに近づいた昭和5年7月末、猛烈な集中豪雨に襲われた。氾濫の危機が迫り、宮本は村民を守るか建設現場を守るかの苦しい選択を迫られ。彼は村民を守るために仮め締切りを切れ!と命じた。完成間近の建設現場は惨憺たる有様となった。こうした苦難を経て新しい可動堰は昭和6年に竣工した。以来、信濃川は2度と牙をむくことなく、越後平野は日本の代表的な米作り地帯と生まれ変り、農民たちは苦しみから救われた。

◆台湾でただ一つ日本人の銅像がある。八田與一の銅像である。彼はユニークな発想をする学生であった。東京帝国大学を卒業すると直ちに日本統治後15年の台湾へ渡り、台湾総督府の土木局に入った。 台湾最大の嘉南平野は洪水、干魃、塩害の三重苦が支配する不毛の大地であった。彼は農民が想像を絶する苦難の中にいる姿を見て、嘉南平野を灌漑する計画を立てた。しかしこの広大な平原を潤すには水量が足りなかったので、彼は平原を3区画に分けて嘉南の人々が等しく水の恵みを受けられるように「3年輪作給水法」を考えた。この雄大な嘉南大圳計画は大正9年に着工され、世界でも珍しいセミ・ハイドロリックフイル工法(湿式工法の土延堤)の烏山頭ダムと、総延長が地球を半周する長さの給排水路を嘉南平原に張り巡らす工事が開始された。昭和5年、世界で3番目の巨大なダムが完成し、その水が給排水路を流れて嘉南平原を隅々まで潤していった。不毛の大地の嘉南平原は台湾最大の穀倉地帯に変貌し、60万人の人々が救われた。人々は彼を嘉南大圳の父と仰ぎ、彼が工事中によく地面に腰を下ろして髪をいじくっていた姿の銅像をたてた。昭和17年5月8日、彼はフイリピンの灌漑計画の調査のために、広島の宇部から大洋丸にに乗り込んだ。その大洋丸が東シナ海を航行中、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。嘉南の人々は日本式の墓を作って埋葬し、今なお命日に追悼式を行っている。

◆民衆のための血の通った土木技師は、何時までも人々の心の中で生き続けていくのである。(大成建設株式会社が作成したビデオの解説から引用・大成建設の社名の由来は昔、大倉喜八郎が経営する大倉土木と称していた。その後、大倉喜八郎の法名が「大成」であったことから、大成建設となった)

個別ページへ |Posted 2012.4.17|

つくられた英雄: クロード・イーザリー(劇作家:こばやし・ひろしの作品)

第二次世界大戦末期、昭和20年8月6日。アメリカ特殊飛行部隊は、広島にリトルボーイとよばれた原子爆弾を投下した。原爆を搭載したB29エノラ・ゲイ号である。投下したB29に「快晴、視界良好。第一目標ヒロシマ、攻撃せよ」と打電した気象偵察機ストレートフラッシュ号の機長がクロード・イーザリー(1918.11.11生)であった。 陽気でポーカー好きのテキサス人だった彼は、戦後、戦争を終結させたアメリカの英雄ースーパーパイロットのひとりとして賞賛をあびる。1946.07.01ビキニ環礁でのクロスロード作戦に参加した。
1947年除隊、子をなくし、原爆の恐ろしさを実際に知るにつれ、罪の意識に悩みはじめる。
退役後、誰にも理解されない苦しみの中で強盗事件を起こすなど反英雄への道をころがり落ちてゆく・・・ 1947年キューバの暴動に加担し逮捕、不起訴(29歳)となり、テキサスの石油会社に入社(妻は、2度にわたり流産)。1948の春と夏に「7.1の被爆の結果、障害が現れたとして、退役軍人局を相手に訴訟を起こす。1949年石油会社を辞めるが、ふたたび石油会社に勤める。1950年広島市長あてに送金を始める。同年、睡眠薬を多量に飲んで自殺未遂、精神科に入院。1951年小切手偽造事件をおこし逮捕される。1953年小切手偽造をくりかえし受刑するも短期で出所する。
1954年宝石店で指輪搾取、懲役1年、自殺未遂をおこし精神科へ強制入院、妻と別居、離婚の申請。1955年クレジットカード詐欺で精神科へ強制入院。妻と離婚成立。1956年、郵便局侵入、拳銃強盗などで精神科へ強制入院。病院からの手紙が注目を浴び、反核シンボルに祭りあげられる一方、共産主義者として糾弾される。1973年喉頭がんにより声を失う。1978年7月1日死去。

(このホームページ管理者所見=厳しい時代を走り抜けた、こばやしひろし氏(2011年2月5日他界)の一生は、「劇団はぐるま」「総合舞台はぐるま」の運営など、決して平坦ではなかったけれど 、沢山の仲間と出会って、仲間の面倒を本当に良く見た。中国との文化交流は、こばやしひろし作の「郡上一揆イ」の中国公園をを皮切りに、日本が1978年8月12日の日中平和友好条約調印前から精力的に行っていた)。このHP管理者は、こばやし氏が存在したからこそ、現在の会社と人生があることに感謝している)

個別ページへ |Posted 2011.12.15|

HAARP(人工地震兵器)とは何か

人工地震は遠い世界のことではない。その他、スマトラ沖地震、ミャンマーにおける大地震・・・・・多くのことを取り上げることは可能であろう。では、イルミナティ・フリーメイソンがその掌中に収めている人工地震兵器とはいかなるものであろうか。アメリカ軍の場合、それはHAARPと呼ばれている。(高周波活性オーロラ調査プログラム)である。しかし、実際にはオーロラ観測とは逆に、地球上から電磁波を発射することによって影響を実験調査したのが始まりである。その人物はバーナード・イーストラントである。彼はそれによってオゾン層を破壊することが出来ることを実証し、さらには天候や気候をもコントロールすることを証明したのであった。

アメリカのHAARPはヨーロッパのパーラメント、さらにはロシアのリューマと同様に世界各地の洪水、干ばつ、ハリケーンを起こすことが可能なのである。いわゆる科学の進歩はここまできている。宇宙空間だけでなく、その宇宙空間を利用して地表のあらゆることをコントロールすることができるようになっている。さらに、1990年代には、クリントン政権において国防長官を務めていたウイリアム・コーヘンがある時「テロリストが地震兵器を使ったり、嵐を起こしたり、火山を噴火させたりする可能性があるので、これに対処する必要がある」とコメントしている。このことは単なる噂ではなく、アメリカの議事録に明記されている。

アメリカにおける大きなハリケーンと言えば2005年8月に起きたカトリーナであろう。これはメキシコ湾から上陸して、ニューオリンズをほとんど壊滅的にしてしまった。2004年には巨大な津波をもたらしたスマトラ沖地震が発生した。これもおそらくHAARPによるものであろう。地震の前にアメリカは海軍をそのマラッカ海峡に突入したがっていたが、インドネシア政府はそれを拒否した。そしてその拒否があまりにも強かったがゆえに、地震後、アメリカ軍艦隊はすぐに援助物資を持ってマラッカ海峡に出現したのである。地震の前からそこに待機していた。そしてことの成り行きをを恐れたインドネシア政府はアメリカの思惑に協力したと言われている・ミャンマーでのサイクロンの時もアメリカ、イギリス、フランスなどの海軍が近くの海で援助物資を持ってすでに待機していたのである。
 (国際時事情報誌・エノク2011年5月号・宇野正美著から)

個別ページへ |Posted 2011.8.16|

地球上に終戦を  (日本航空機操縦士協会副会長・小林宏之氏)

終戦の翌年生れた私は「終戦を知らない子供たち」の一人だ。ただ、一パイロットとして、ベトナム戦争、イラン・イラク戦争、湾岸戦争を上空から眺めてきた。ベトナム戦争では、夜間上空を飛行中、眼下地上戦の砲火が広がるのを何度も見てきた。サイゴンが陥落した日も、その上空を飛行したが、ベトナムの管制との通信はほとんどできず、何が起こっているか全くしらずバンコクに到着。その直後に歴史的な事実を知った。

イラン・イラク戦争中、ペルシャ湾付近を飛行する際には軍用機と間違われないような細心の配慮が必要だった。イランの民間機が、アメリカ海軍ミサイル巡洋艦に誤撃墜されたこともある。会社から空域での飛行の安全性を調査するよう命じられた。湾岸戦争当時は、イラクのスカッドミサイルの性能やフセイン政権が生物化学兵器を使用する可能性まで調べて飛んだ。20世紀は戦争の時代だった。

一方で、高度一万メートルから地球を見続けて浮かんでくる言葉は【かけがえのない地球】である。白い雲、緑の森、青い海に包まれた地球は、神秘的なまでに美しい。この美しさを生み出すのは、地球に存在するものすべての調和だ。その調和を破壊する行為の一つが戦争だろう。21世紀は、生物の多様性だけでなく、人間も国も互いに多様性を認め合い、争いや戦争のない共存・共生が世紀であってほしい。 (このHP管理者は小林氏の講演を2回聴いた。危険な国際線の航空機操縦をしながら世界平和を常に願う人物である)  2011年8月15日。中日新聞の夕刊から引用

個別ページへ |Posted 2011.8.16|

孫文を支えた日本人1,000人超える 辛亥革命100年(台湾元年1911年)

神戸高等女学校で「大アジア主義」を訴える孫文(神戸華僑歴史博物館提供)近代中国の幕開けとなった辛亥(しんがい)革命から今年で100年。革命運動の指導者、孫文にかかわった日本人や在日華僑の人名録づくりが、日本で唯一の孫文記念館(神戸市垂水区)で進められている。宮崎滔天(とうてん)や、梅谷庄吉といった文献に登場する有名人だけでなく、市井の人を発掘することで日中交流の深さを浮き彫りにしたいという。

中国、台湾双方で偉業がたたえられる希少な人物だけに、日中台3国の絆を強める事業としても期待されている。(安藤義隆)孫文記念館は明石海峡を望む海岸にある。もよもとは有力華僑、呉 錦堂の別荘の別荘の一部。別荘では大正2(1913)年3月に、神戸の政財界有志による孫文歓迎の宴が開かれた。館長は中国近代史が専門の安井梅吉・神戸大学名誉教授で、人名簿づくりが「孫文と日本の関りをさらに深めることになる」と話す。

孫文は中国との玄関口だった神戸港から入国。長崎、福岡、熊本、横浜、東京と各地で政財界の有力者から活動資金などの支援を受けた。計18回立ち寄った神戸では、川崎造船所の社長だった松方幸次郎が当時の中国政府と敵対していた孫文を造船所の岸壁から上陸させ、かくまった。 (2011年4月14日の産業経済新聞から)

このホームページ管理者の話。1911年に日本軍はシンガポールに居た孫文を台湾へ連れてきた。1911年は台湾元年である。仮にこの話題を「話の広場に投稿した日」に、物品が製造された仮定すれば、製造年月日は、18.04.100 となる。

個別ページへ |Posted 2011.4.18|

イルミナティ・フリーメイソンのメンバーは 【創造主なる神を認めない】

イルミナティ・フリーメイソンは「創造主なる神」を認めないがゆえに、自分たちが神であるような錯覚を持ち、行動を開始する。彼らがどんな自負心ををもとうと、自分たちがどれほどエリートであると自負しようと結局は人間である。イルミナティ・フリーメイソンは、今2つの大きな地下組織が合体したものである。やがて激しい内部対立が起きる。宗教的な組織であったフリーメイソンが、イルミナティという世界支配を目指す政治組織の中に食われてしまったのである。そして、もうひとつは繰り返し言われているように、ユダヤ地下組織・サンヘドリンの存在である。

ロスチャイルド家は世界全体の富の半分をそのまま掌中に収めたと言われている。従って世界経済の運営を考える時、ロスチャイルド家を無視することはできない。ロスチャイルド家はユダヤ地下政府とつながりのある強力なメンバーである。このようなことからイルミナティ・フリーメイソンとユダヤ地下政府が世界政府を作ろうとしているわけである。EUが「ヨーロッパ合衆国」建設していく背景に、この二つの組織の合体があることを知らなければならない。2008年アイルランドはEU憲法を否決した。しかし、ロスチャイルド家は自らのアメリカにおける金融拠点であった、リーマン・ブラザーズを崩壊させることによって、アイルランドをも巻き込んだ世界大恐慌へのスタートを切ったわけである。

今後、常にこの二つの組織が合体しつつ世界支配に向かって動いていくと思われる。イルミナティ・フリーメイソンは主に白人たちの世界支配グループである。自分たちはエリートであるという意識は非常に強いものがある。従って世界中にあるフリーメイソン、すなわち黄色人種や黒人たちも一部は含まれていても、結局はある時点で、振り落とされていくことになるであろうと筆者は言う。
ユダヤ地下組織、すなわちサンヘドリンは本当のユダヤ人たちのグループである。紀元70年、エルサレムが崩壊した時にサンヘドリンは地下に潜った。文字どうり彼らは地下を這うようにして世界中をさ迷い続けてきた。ある時はアフリカ、ある時は中東、またある時はヨーロッパにおいてその拠点を築いてきた。自分たちは選民である。そして自分たちこそが世界統治をしなければならないという自負心を持ち続けてきたと思われる。その怨念は非常に激しいものであった。しかし、イルミナティ・フリーメイソンとユダヤ地下政府は分裂せざるを得ない状況になると言われる。そのことは世界政府樹立後の後に起きると思われている。    (情報元・株式会社 エノク出版2010年5月)

個別ページへ |Posted 2010.10.27|

ビジネスに通じる剣道・弓道の ” 残 心 ”

剣道や弓道で「残心」という言葉があります。
刀を振るって切り結んだ後、敵の反撃に備えて心の構えを崩さないでいること。あるいは矢を放った後、緊張した心をそのまま持続していることいいます。すなわち「終わりを慎むこと初めののごとくあるべし」という教えです。
勢いに任せて突進し、敵を倒したのはいいが、そこで心を緩めてしまうと思いがけない失敗をし命を落とすかもしれない。これは、戦国時代だけの話ではありません。現在のビジネスの世界で現実的な営業姿勢や、そして現場の実施行動にも当て嵌ります。

一つの難関的プロジェクト事業を征服して祝杯を上げるときが要注意である。それは慢心して気が緩めば、すぐに停滞を退化がが始まるからです。迫力は弱くなり、貴重なアイデアは涸れてくる。競争相手は挽回しようとあらゆる手段で巻き返しを狙ってくる。仕事仲間もしかり。いつ後ろから切りつけてくるかわからない。会社経営の【残心】とは、その恐ろしさをしり、勇気と謙虚な心を持ち戦うことではなかろうか。日々の格言として是非、実行語録に加えてください。

本文は、このホームページ管理者が中部経済同友会で尊敬しお世話になっている、岩部建設株式会社の岩部一好氏が自費出版された本を頂戴したので、自分のビジネス決算期34期目の自社、一番心に残る内容を許可なく記載させていただいた。

岩部一好氏は、作家:故・城山三郎しとは非常にご縁の深い方でした。何かにつけてご教示をされています。ご教示された内容の中に「三つの教え」があるといいます。
● 一つ目は「専門の学問をしっかり勉強することによるライセンスの取得と技術力の向上」 
●二つ目は「専門だけだと視野が狭くなるから、社会のこと、時代や世間のこと、何事も学び、特に文化への視野を広くもち続けること」そして
●三つ目は「この世のはすべてに人間が関係しています」と、何度も教えられたそうです。

個別ページへ |Posted 2010.8.21|

納豆を食する大切さ (心筋梗塞や糖尿病の予防)

納豆には脳梗塞や心筋梗塞などの原因となる血液中の血栓を溶かす素晴らしい酵素が含まれていることがわかった。ナットキナーゼは、いまや国際医学語として全世界の人々の知るところとなっている。かって、ソ連が宇宙食としての納豆研究を行ったことがあるそうだ。ナットキナーゼは、高温70度以上ではその効力を失ってしまう。従ってはるか以前から納豆は食べることで効力があるとされてきたことは正しい。

しかしこんにち、納豆は血栓を溶かす素晴らしい働きの他に、多くのパワーを秘めている。従って納豆は生で食べてよし、炒めてよし、揚げてよし・・・あらゆる料理法で私たちに健康を提供してくれる。納豆はいまや国民病とも言われる糖尿病予防のためにも大いなる効力を発揮してくれている。 納豆に含まれているビタミンB2に血糖値を下げる働きがあることはかねてから知られていた。不思議なことにそのビタミンB2は大豆に多く含まれるが、それが発酵して納豆になると約5倍のビタミンB2を含むことになる。

納豆には多くの食物繊維が含まれている。これによってインスリンの分泌が正常な速度で対応することができ、血糖値の急激な上昇を抑えてくれることになる。 糖尿病と共に、今日の生活習慣病の横綱は高血圧症である。これは塩分の塩分の取りすぎによって生じるものであるとされている。嬉しいことに納豆にはレシチンという脂質が大量に含まれていて、悪玉コレステロ^ルを抑えることのできる重要な働きをするとされている。

骨粗しょう症が今日多くの日本人を悩ませている。それはカルシュウム不足から起きてくるものである。カルシュウムを体内に取り込むためにはビタミンDが必要である。しかし、血液の中に多くのカルシュウムを入れたとしても、それを長く定着させるためには、ビタミンK2という物質が必要である。これがなければ骨になりにくいこともわかっている。ビタミンK2は腸内細菌が作り出すものであるとされているが、加齢とともにそれが減少し、必然的にK2が減って骨が弱くなってしまう。これは、骨粗しょう症である。この骨を丈夫にするビタミンK2はは驚くべきことに納豆しか含まれていない。

頭のよい子は、すなわちIQの高い子どもたちはよく納豆が好きであると言われてきてきた。納豆が健脳食として今では全世界が注目している。納豆に含まれているレシチンが脳の働きを活発にして、記憶力を高めていくからである。普通、高齢化が進むと脳の活力は弱っていく。その結果としてボケなどが起きる。納豆はそのような老人性痴呆症を防止してくれる。(株式会社エノク出版・8月号より)

個別ページへ |Posted 2010.8.10|