話の広場
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日本に原子力発電を取り戻せ(国基研2022.12月号から)

国は責任を持って原子力への理解活動に取り組め

我が国が将来にわたって原子力オプションを保持・発展させていくためには国民理解が不可欠である。福島第一原発以降、原発にゼロリスクを求める議論が生じているが、政府は、およそいかなる技術であっても「絶対安全」は不可能であること、そうした中で原発の安全規制は格段に強化され、万一の場合のリスクが最小化されていること、脆弱なエネルギー構造を有する我が国が長期にわたってエネルギー安全保障と温暖化防止を同時追求するためには原子力が不可欠であること等につき、理解増進活動を抜本的に強化すべきである。

福島では事故以来、汚染水の発生による農業、漁業従事者から国内外における風評被害が取りざたされ再稼働はおろか、自然界レベルのトリチウムを含む処理済水の海洋放出に対しても科学的根拠のない反対キャンペーンが続いている。このようなプロパガンダに対し、政府及び規制委員会は正しい科学的根拠に基づき、自然界の放射線と差はない根拠を示し、主要メディアへの政府広報の掲載・放送等を通じた有効な情報発信を始めるべきである。

日本に原子力発電を取り戻せ

エネルギーの安定供給は国の基である。にもかかわらず、わが国はこの問題にまともに向き合ってこなかった。いまや日本のエネルギーを取り巻く環境は「崖っぷち」の状況にある。再エネの効率的な導入と技術開発を進めることは当然である。しかし貴重な国産技術である原子力を封印したままでは対策コストをいたずらに引き上げ、国家安全保障を著しく毀損する。原子力をめぐる状況を正常化させることは「待ったなし」であり、既に述べたような原子力規制の正常化・合理化、新規投資のための政策・ビジネス環境の整備、エネルギーリテラシーの向上に取り組まねばならない。

それを可能にするのは揺るがぬ政治的決意しかない。原発再稼動に懐疑的な世論、脱原発を掲げるメディア、野党の存在等、状況は厳しい。民主国家である以上、世論に配慮せねばならないが、国民に不人気な施策であっても国家百年の計のために取り組まねばならぬ施策もある。日本経済、エネルギー安全保障、温室効果ガス排出にネガティブな影響を与え続ける状況を放置してはならない。安倍政権は安保法制をはじめ、国家安全保障を強化するための施策に強い決意で果敢に取り組んできた。三条委員会の判断は尊重されるべきであるが、エネルギー政策についても同等の決意で取り組むことを強く求めたい。

個別ページへ |Posted 2022.12.15|

2022年ワールドカップ(カタール)が教えてくれたこと。

2022年5月80歳で世を去ったサッカー監督のイビッチャ・オシムさんは。1990年サッカー杯イアタリア大会でユーゴスラビア代表の監督を務めた。準々決勝でマラドーナを擁するアルゼンチン代表と死闘を繰り広げ、PK戦敗れる。「どうして120分の戦いについてではなく、PK戦ことばかり聞くんだ。オシムさんは試合後の会見でいらだっていたそうだ。実は、PK戦が決まると選手は次々とスパイクを脱ぎ始めた。蹴りたくない意思表示である。宗教や言語の異なる6つの共和国で構成された旧ユーゴは、解体、内戦の危機が迫っていた。

各国を代表していた選手にとって失敗は許されなかった。オシムさんは、選手の重圧を知りながらキッカーを指名しロッカールームで結果を知った。オシムさんにとって苦い経験である。日本の代表監督になってからもPK戦を一切見なった。W杯カタール大会で、日本代表は悲願のベスト8進出を果たせなかった。前回準優勝のクロアチアと互角に渡り合いながら、PK戦で涙をのんだ。旧ユーゴの共和国一つだったクロアチアには、かって多くの教え子がいた。W杯で日本の指揮をとるはずだった。オシムさんが観客席にいたら、やはりいたたままれずに、その場を去っていただろう。

オシムさんが言うように、語り継ぐべきは「素晴らしい120分間の戦い」である。日本が、ドイツ、スペインを破った快進撃もそうだ。森安 一監督は試合後、観客席に向かって深々と頭を下げた。サポーターはこれまで通り、ゴミを拾いあげていた。その振る舞いは世界中から称賛を浴びた。「日本サッカーを日本化する」「このサッカーはオシム語録にある目標」に一歩近づいたようにも思える。
2022年12月7日(産経抄より)

このHPHPの管理者・W杯を通して多くの言葉や教訓をえた。「景色を変える」「過去の自分を見直して、行動を変える時期がきたW杯」「暖かい言動と行動が世界から称賛を浴びる」などなど我々に多くの学びを教えてくれた。老若男女を問わずカタール杯は多くの学びを教えてくれた。日常の生活にも生かしたいことが多くあった。

個別ページへ |Posted 2022.12.7|

「失敗つづき」清水建設会長 宮本洋一氏

「このたび横浜営業所に配属になりました新入社員の宮本です。お世話になります」。51年前の初夏のある日、私は桜木町駅近くにあった営業所を訪ねた。「君が宮本くんか」と迎えてくれた営業所長は強面(こわもて)で迫力満点。片手に白い手袋をして一分の隙もない。覚悟はしていたが「スゴいところに来たな」というのが第一印象だった。

入社当時の私は、色白でやせぎす。身長1メートル81センチで、体重57キロ。スマートというより、吹けば飛ぶような体格だった。ただ、背が高いと何かと目立ってしまう。「あいつ、現場じゃ無理かもな」「いつまでもつか」――。当時の上司は入社直後の私を見て、そんな印象を持ったという。

挨拶もそこそこに「すぐに行くように」と命じられたのは、山下町にあったこの年6月に着工したばかりのテレビ神奈川(横浜市)本社ビルの現場。現場所長は30代後半。契約社員から「転格」を重ね、作業所長にまで上り詰めた「伝説の人」だった。

最初の仕事は鳶(とび)工事、土工事、コンクリート工事、鉄筋工事の管理担当。具体的には、設計図に基づき作成する施工図通り建物を造るのに必要な仮設計画や作業員・機械の手配、工程管理などで、最も大切なのは各職の職長たちとのコミュニケーション。ただ、作業に関しては「ずぶの素人」だった。

とにかく現場で揉(も)まれながら手探りで仕事を覚える、そんな日々である。失敗は数限りない。例えば、現場で鳶が足場を組むとなれば、単管(鉄パイプ)など必要な材料の手配を前もって終えておかねばならない。入社間もない頃のことで覚えているのは、枠組足場のぐらつきを防止するブレース(筋交い)の手配ミス。足場の両側に対になるように設置するのだが、片側分しか手配していなかった。

お恥ずかしい話だが、足場の図面には片側しか描かれておらず、2倍にするのを忘れていたのである。翌朝作業を始めたら、ブレースが半数しかない。雷が落ちたのは当然。鳶の親方から「こんなことじゃあ宮本さん、偉くなれねえな」と灸(きゅう)を据えられた。

若手の頃、現場で相当頭を使った仕事の一つにコンクリートの手配がある。建築では鉄筋を組み、型枠を建て込んだところにコンクリートを流し込む。これを「打設」という。事前に必要なコンクリートの量を計算し、生コン会社に打設の日時と数量の予約を入れなければならないが、この数量計算が難物なのだ。

コンクリート軀体(くたい)図を基に数字を弾き出すのだが、打設の経過に伴い型枠が膨らんだり、「スラブ」と呼ばれる床部分が重さでたわむことがある。諸条件を勘案し「○月○日○時から、生コン××立方メートルお願いします」と生コン会社に連絡する。

当日打設が順調に進んだとしても、終了間際が正念場。未打設の部分を調べて「あと××立方メートル」と生コンの手配をしなければならない。もし足りなくなると、追加の生コンが来るまで作業に携わる全員を1時間も現場で待たせることになり「どうしてくれる」と詰め寄られる。

多めに発注したいところだが、余らせるのもNG。現場ごとにセメント・砂・砂利の配合が違うので他の工事には使えないし、現場に置いておくと固まって産業廃棄物として処分しなければならなくなる。そうすると、今度は所長に叱られる。

このように工事の採算は、作業をいかに無駄なく進めるかにかかっている。よく、現場所長を数多く経験すれば、工務店の社長が十分務まるといわれる。経営感覚が自(おの)ずと身につくからだろう。

個別ページへ |Posted 2022.11.13|

北方四島は日本領土 2022.11.04産経新聞

日本と旧ソ連が国交を回復した1956(昭和31)年の日ソ共同宣言から19日で66年となった。日本政府は「平和条約締結後に歯舞(はぼまい)群島と色丹(しこたん)島の引き渡し」をうたった宣言を基礎に外交努力を重ねてきたが、平和条約交渉が難航する中でウクライナ戦争が勃発。その後、ロシアが交渉中断を一方的に通告し、北方領土問題解決を含む平和条約締結への道筋は描けなくなっている。

「領土問題を解決し、平和条約を締結するとの方針を堅持していく」。松野博一官房長官は18日の記者会見でこう述べた。「ウクライナ情勢によって日露関係は厳しい状況ではある」とも語り、交渉再開に向けた厳しい現状も認めた。

ロシア外務省は今年3月、日本が欧米諸国と歩調を合わせて対露制裁に踏み切ったことを受け、平和条約交渉を凍結するとの声明を出した。さらに、北方領土の元島民の墓参などを目的としたビザなし交流の停止、北方領土での共同経済活動に関する協議からの撤退も表明した上で、「すべての責任は、反ロシア的な行動を取ることを選択した日本側にある」とした。

これに対し、岸田文雄首相は「今回の事態はすべてロシアによるウクライナ侵略に起因して発生しており、日露関係に転嫁しようとするロシア側の対応は極めて不当だ」と反論した。以降、首相は対露制裁を段階的に強化し、長期的な日露関係の冷却化は避けられなくなった。

日ソ共同宣言の重要性が改めて確認されたのが、2018年11月のシンガポール合意だった。安倍晋三首相(当時)がプーチン大統領との間で、日ソ共同宣言に基づき交渉を加速させることで合意した。国後(くなしり)、択捉(えとろふ)の2島も含めた北方四島返還を求める立場から、2島先行返還を容認する立場への大きな転換点となった。

しかし、ロシアはその交渉の中で、日米同盟の存在が平和条約締結の障害になっていると主張。20年7月には憲法を改正し領土割譲につながる行為を原則的に禁じ、北方領土を事実上の「経済特区」に指定するなど日本の立場を無視した政策を一方的に進めてきた。安倍氏の退陣後、菅義偉、岸田両政権でもシンガポール合意を引き継ぐ考えを示したが、表立った進展はなかった。

ウクライナのゼレンスキー大統領は今月7日、ビデオ声明で「ロシアが不法占拠している北方領土を含む、日本の主権と領土の一体性を支持する」と述べ、対応する国内文書に署名したと明らかにした。ウクライナ議会も同じ内容の決議をし、領土問題をめぐり日本や国際社会と連携する方針を示した。

ロシアは現在、ウクライナ全土にミサイル攻撃を行うなど終戦への出口は見えない状況だ。外務省幹部は「日ソ共同宣言は国際約束で、法的には百パーセント有効だ」と語る。一方で「隣国を侵略して領土を広げようとしているロシアと交渉を通じて領土問題解決を目指すのにふさわしいタイミングではない」とも付け加える。

政府高官は「将来のことを論じる根拠は何もない。ロシアが今後どうなるかを踏まえながら考えることになる」と語る。ただ、日露交渉を再開するにはウクライナ戦争の終結か、プーチン氏の失脚などによるレジームチェンジ(体制転換)が起きない限り困難との見方が政府内では大勢だ。政府には「プーチン後」を見据えた戦略を描くことも求められそうだ。(広池慶一)

個別ページへ |Posted 2022.11.8|

1868年10月22日:明治が始まった日・思い出の歌・心の歌

1868年~1908年 文明開化
庭の千草(里見 義作詞/アイルランド民謡)明治17年
埴生の宿(里見 義作詞/ ビショップ作曲)明治22年
旅  愁(犬球 球渓作詞/オードウエイ作曲)明治40年
1911年~1914年
尋常小学校唱歌
唱歌メドレー・紅葉~冬の夜~冬景色~春の小川~朧月夜
1900年 日本とヨーロッパ
荒城の月(土井晩翠作詞/滝 廉太郎作曲)明治32年
あなたがほしいの(バコリー作詞/サテイ作曲)1900年
1912年~1926年 大正ロマン
ゴンドラの歌(吉井 勇作詞/中山晋平作曲)大正4年
恋はやさし野辺の花よ(小林 愛雄作詞/ズッペ作曲)大正6年
宵待草(竹久 夢二作曲/多 忠亮作曲)大正6年
1914年~1918年 第一次世界大戦
ウイーンが夢の街(あらかわ ひろし訳詞/ジーツインスキー作詞・作曲)1914年
1926年~1930年 大正ロマンのなごり
七つの故(野口雨情作/本居長世作曲)大正10年
すみれの花咲くころ(白井鐵造作詞/デーレ作曲)昭和5年
月の砂漠(加藤まさお作詞/佐々木すぐる作曲)昭和2年
1935年~1945 忍び寄る第二次世界大戦
蘇州夜曲(西條八十作詞/服部良一作曲)昭和15年
惜別の歌(島崎藤村作詞/藤江英輔作曲)昭和19年
革命(ショパン作曲)1831年※ピアノソロ
シンドラーのリスト(ジョン・ウイリアムズ作曲)1993年※ヴァイオリンソロ
1945年~2022年 終戦から現在
ひまわり(下垣真希作詞/マンシーニ作曲)1970年
長崎の鐘(サトウーハチロー作詞/古関祐而作曲)昭和24年
アメイジング・グレイス(ニュートン作詞/作曲者不詳)
       (2022年10月23日・ソプラノ歌手・下垣真希のリサイタルから)

個別ページへ |Posted 2022.10.26|

知性とモラルを欠いた日本の国会(国基研・田久保忠衛氏)

衆参両院の議事運営委員会の閉会中審査に岸田文雄首相が出席し、立憲民主党の泉健太代表が質問をするというので、8日にテレビを視聴した。そこで感じた絶望的な怒りはいまだに収まらない。つい最近まで日本の最高指導者だった人物が公衆の面前で真っ昼間に暗殺されたのに、国の在り方は問題にもされず、取るに足らぬ瑣末な問題に貴重な時間が徒いたずらに費やされている。

●安倍氏の死への慟哭(どうこく)の念はどこに
 保守系の人々には不評判だったが一般大衆には圧倒的人気のあった政治家、浅沼稲次郎氏(社会党委員長)が昭和35(1960)年、東京の日比谷公会堂で刺殺された事件を、私はテレビで見ていた。国会で追悼演説をした池田勇人首相(自民党総裁)は「沼は演説百姓よ」で始まる名文を訥訥(とつとつ)と読み上げた。演説下手の池田氏の調子は人の心に迫る哀調を帯びていた。だからいまでも語り継がれている。与野党の対立を超えた人間的フェアプレーの精神が残っていた時代だったのか。いまはそれがない。
 
泉代表と岸田首相のやり取りに限ったことではないが、凶弾に倒れた安倍晋三元首相に対する慟哭どうこくの念や惜別の思いはいまの国会から少しでも感じられただろうか。国葬の手続きはどのように踏んだか、経費はいかに算出されたか、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との関わり合いはどうかを一方が追及し、他方が弁解に終始した。国会審査の焦点は安倍氏から国葬や旧統一教会に完全に転換されてしまった。この種の次元に貴重な時間を割く日本の国会に、外国は尊敬の念を抱くか。

●「信教の自由」侵害の懸念
 安倍氏と旧統一教会の関係はいかにも深いかのような報道がなされているが、霊感商法を抑制する2度の法改正により、安倍政権下で被害額は大幅に減っているようだ。これはどう解釈するのか。
 茂木敏光自民党幹事長は「(党所属国会議員と旧統一教会の関係についての調査)結果を重く受け止めている。率直に反省し、今後は旧統一教会と一切関係を持たないことを党内に徹底していく」と明言した。「一切関係を持たない」とどのような確約を議員から取るつもりか。「信教の自由は、何人なんびとに対してもこれを保障する」という憲法20条に抵触しないか。

茂木発言は、仮に世論に阿おもねた軽い発言のつもりでも、世界の宗教に関わりを持ってくる。事の重大性をどれだけ認識しているか。
 折からロシアは、択捉島と国後島を含むシベリア・極東地域で4年に1度の大規模軍事演習「ボストーク2022」をこれ見よがしに実施した。松野博一官房長官はこれまでと同じく「極めて遺憾だ」を繰り返すだけで、議員の大方は無関心だろう。知性とモラルと勇気を欠いた日本の国会こそ「戦後レジーム」の象徴である。(了)このホームページ管理者は、公益財団法人・国家基本問題研究所の会員である

個別ページへ |Posted 2022.10.7|

安倍元副総理の国葬儀(友人代表・菅 義偉前首相の追悼文)2022.09.27(R4)

9月27日に営まれた安倍晋三元首相の国葬(国葬儀)で、自民党の菅義偉前首相は友人代表として追悼の辞を述べた。菅氏は安倍氏との出会いや第2次安倍政権時代の日々を振り返り、「あらゆる苦楽を共にした(第2次安倍政権での)7年8カ月。私は本当に幸せでした」と述べた。菅氏の追悼の辞の全文は次の通り。 ◇ 7月の8日でした。 信じられない一報を耳にし、とにかく一命をとりとめてほしい。あなたにお目にかかりたい。同じ空間で同じ空気を共にしたい。その一心で現地に向かい、そしてあなたならではの温かなほほ笑みに、最後の一瞬、接することができました。あの運命の日から、80日がたってしまいました。

あれからも朝は来て、日は暮れていきます。やかましかったセミはいつのまにか鳴りをひそめ、高い空には秋の雲がたなびくようになりました。季節は歩みを進めます。あなたという人がいないのに、時は過ぎる。無情でも過ぎていくことに、私はいまだに許せないものを覚えます。天はなぜ、よりにもよってこのような悲劇を現実にし、生命(いのち)を失ってはならない人から生命を召し上げてしまったのか。惜しくてなりません。悲しみと怒りを交互に感じながら、今日のこの日を迎えました。


しかし、安倍総理とお呼びしますが、ご覧になれますか。ここ武道館の周りには花をささげよう、国葬儀に立ちあおうと、たくさんの人が集まってくれています。20代、30代の人たちが少なくないようです。明日を担う若者たちが大勢、あなたを慕い、あなたを見送りに来ています。総理、あなたは今日よりも明日の方がよくなる日本を創りたい。若い人たちに希望を持たせたいという強い信念を持ち、毎日、毎日、国民に語りかけておられた。そして、日本よ、日本人よ、世界の真ん中で咲き誇れ。これがあなたの口癖でした。


次の時代を担う人々が未来を明るく思い描いて初めて経済も成長するのだと。いま、あなたを惜しむ若い人たちが、こんなにもたくさんいるということは、歩みをともにした者として、これ以上にうれしいことはありません。報われた思いであります。平成12年、日本政府は北朝鮮にコメを送ろうとしておりました。私は当選まだ2回の議員でしたが、「草の根の国民に届くのならよいが、その保証がない限り、軍部を肥やすようなことはすべきでない」と言って、自民党総務会で大反対の意見をぶちましたところ、これが新聞に載りました。すると、記事を見たあなたは「会いたい」と電話をかけてくれました。


「菅さんの言っていることは正しい。北朝鮮が拉致した日本人を取り戻すため、一緒に行動してくれればうれしい」と、そういうお話でした。信念と迫力に満ちたあの時のあなたの言葉は、その後の私自身の政治活動の糧となりました。そのまっすぐな目、信念を貫こうとする姿勢に打たれ、私は直感いたしました。この人こそはいつか総理になる人、ならねばならない人なのだと、確信をしたのであります。


私が生涯誇りとするのは、この確信において、一度として揺らがなかったことであります。総理、あなたは一度、持病が悪くなって、総理の座をしりぞきました。そのことを負い目に思って、二度目の自民党総裁選出馬をずいぶんと迷っておられました。大の達成」として、いつまでも誇らしく思うであろうと思います。総理が官邸にいるときは欠かさず、一日に一度、気兼ねのない話をしました。

今でも、ふと一人になると、そうした日々の様子がまざまざとと蘇ってまいります。TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉に入るのを、私はできれば時間をかけたほうがいいという立場でした。総理は「タイミングを失してはならない。やるなら早いほうがいい」という意見で、どちらが正しかったかは、もはや歴史が証明済みです。


一歩後退すると勢いを失う。前進してこそ活路が開けると思っていたのでしょう。総理、あなたの判断はいつも正しかった。安倍総理。日本国はあなたという歴史上かけがえのないリーダーをいただいたからこそ、特定秘密保護法、一連の平和安全法制、改正組織犯罪処罰法など難しかった法案を、すべて成立をさせることができました。どの一つを欠いても、わが国の安全は確固たるものにはならない。あなたの信念、そして決意に、私たちはとこしえの感謝をささげるものであります。国難を突破し、強い日本を創る。そして真の平和国家日本を希求し、日本をあらゆる分野で世界に貢献できる国にする。


そんな覚悟と決断の毎日が続く中にあっても、総理、あなたは常に笑顔を絶やさなかった。いつもまわりの人たちに心を配り、優しさを降り注いだ。総理大臣官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした7年8カ月。私は本当に幸せでした。私だけではなく、すべてのスタッフたちがあの厳しい日々の中で、明るく生き生きと働いていたことを思い起こします。何度でも申し上げます。安倍総理、あなたはわが国、日本にとっての真のリーダーでした。


衆議院第1会館1212号室の、あなたの机には読みかけの本が1冊、ありました。岡義武著『山県有朋』です。

ここまで読んだという最後のページは、端を折ってありました。そしてそのページにはマーカーペンで、線を引いたところがありました。
しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも山県有朋が長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人をしのんで詠んだ歌でありました。

総理、今、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。
「かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ」
「かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ」深い悲しみと寂しさを覚えます。
総理、本当にありがとうございました。どうか安らかに、お休みください。

           令和4年9月27日 前内閣総理大臣 菅義偉 (令和4年9月27日・14時50分)

個別ページへ |Posted 2022.9.28|

白洲正子の名言集

(1) 好きなことを、何でもいいから一つ、井戸を掘るつもりで、とことんやるといいよ。
(2) 日本の文化を知らなければ、西洋人には太刀打ちできない。
(3) 本当に国際的というのは、自分の国を、あるいは自分自身を知ることであり、
外国語が巧くなることでも、外人の真似をすることでもない。
(4) 日本の自然ほど多くのものが含まれているものはない。その中には宗教も、美術も、歴史も、文学も、潜在している。
(5) 失敗しないよう、間違いのないよう、安全第一を目指すのも怪我の元です。たのしみがないから、直ぐあきる。
物を覚えるのに、痛いおもいや恥ずかしい目をおそれたのでは成功しない。きものを見る眼も同じことです。

 

(6) 伝統をうけつぐとは、過去にしがみつくことではなく、あくまでも前向きの姿勢を崩さないことだ。

(7) お能には橋掛り、歌舞伎にも花道があるように、とかく人生は結果より、そこへ行きつくまでの道中の方に魅力があるようだ。

(8) 田舎に住んで、まともな生活をしている人々を、私は尊敬こそすれ、田舎者とはいわない。

都会の中で恥も外聞もなく振舞う人種を、イナカモンと呼ぶのである。

(9) 本当に国際的というのは、自分の国を、或いは自分自身を知ることであり、外国語が巧くなることでも、外人の真似をすることでもないのである。

(10) 今は命を大切にすることより、酒でも遊びでも恋愛でもよい、命がけで何かを実行してみることだ。
そのときはじめて命の尊さと、この世のはかなさを実感するだろう。(随筆家・白洲正子)

個別ページへ |Posted 2022.9.25|

金 賢姫元工作員が明かした苦難の20年(産経新聞20220919)


北朝鮮が2002年の日朝首脳会談で日本人拉致を認めてから17日で20年となった。1987年の大韓航空機爆破事件の実行犯で、北朝鮮で横田めぐみさんら拉致被害者と接触のあった金賢姫(キム・ヒョンヒ)元工作員(60)にとってこの20年は、被害者の帰国を待つ家族同様に苦難が続いた。金氏は産経新聞とのインタビューで、韓国の政権や世論に翻弄された20年間の日々を振り返った。

「北を守りたい人たち」韓国で2002年は、00年に北朝鮮との初の首脳会談に臨んだ金大中(キム・デジュン)大統領と、後に2回目の首脳会談に臨むことになる03年からの盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領と2代続いた親北左派政権の政権移行期に当たった。

そうした中、にわかに巻き起こったのが「大韓航空機事件は当時の韓国保守政権によるでっち上げで、金賢姫は偽者(の工作員)だ」というメディアや左派団体総出のキャンペーンだった。

03年には金賢姫夫妻宅の住所が流出し、自宅にメディアが押し掛けた。幼い子供を抱えた金氏は、別の場所に一時避難せざるを得なかった。「最初は2、3日ぐらいだろうと思った」(金氏)が、ここ20年間の大半を避難先で過ごすことになった。08年以降の李明博(イ・ミョンバク)、朴槿恵(パク・クネ)大統領と2代続いた保守政権時代も環境はさして改善されず、盧元大統領の盟友の文在寅(ムン・ジェイン)氏が17年に大統領に就くと、金氏に対する糾弾が再燃する。大韓航空機事件の被害者遺族の名誉を毀損(きそん)したとして告発された。

大韓航空機事件でっち上げ説を唱える人々について、金氏が「北朝鮮がやったという真実が嫌な人で、理念的に北朝鮮を守ってあげたくなる人たちじゃないか」と米政府系メディアのインタビューで語ったことにより、でっち上げ説を主張していた一部の遺族の名誉を傷つけたというのだ。金氏は大韓航空機爆破事件のでっち上げ説に関し、「金正日(キム・ジョンイル)総書記が指示したのではなかったという免罪符を北朝鮮への贈り物としてあげるため」当時の韓国左派政権側が工作しようとした可能性を指摘する。

突然の結婚許可
そうした左派団体やメディアの攻撃からも「盾」になって常に守ってくれたのが、韓国情報機関出身の夫だった。文政権時代に攻撃が再開したときにも「いざとなれば、世界中のメディアを呼んで事実を明らかにする」と息まき、不当な糾弾に一歩も退かなかった。その最愛の夫が昨年2月、心臓の病で急死した。言いようのない「衝撃と悲しみ」に襲われた。

夫は、金賢姫氏が大韓航空機事件直後に拘束され、韓国で取り調べを受けていた当時の情報機関の捜査チームの一人だった。ただ、捜査で中心的役目をしたわけではなく、当初は「捜査陣の一人」程度の認識しかなかった。しかし、素朴で周囲への気配りを欠かさない人柄に親しみを感じ、何かにつけて相談する「親友」になっていった。

結婚する前のある日、今の夫の先輩から何人かで食事しようと誘われた。だが、約束の場所に行ったところ、夫が一人で待っていた。夫と2人きりの場を設けるために先輩が仕組んだことが分かった。約2年間の交際が始まった。

情報機関の管理下で当時暮らしていた場所に夫が訪ねてくると、女性警護官が「デートが終われば、連絡してくれればいいから」と2人だけの時間をつくってくれるなど、困難な恋愛に周囲が配慮してくれた。だが、当局はいつまでたっても結婚を許可してくれない。1997年末ごろ、35歳を過ぎて焦っていたところ、当局が突然、早く結婚申請を済ませるようにと指示した。金大中氏が大統領選で当選し、親北左派政権となることが予想され、それを見越した機関が、北朝鮮が嫌う存在を〝厄介払い〟しようとした可能性が考えられる。

諦めかけていた結婚が実現したことだけが、金賢姫氏が唯一、親北政権の誕生に感謝する部分だ。日本語で秘密の会話、厳重な警護下に置かれ、自由に外出できない金氏に代わって夫が何でもしてくれたという。夫は金氏にとって「何もかも頼ってきた人」だった。その最愛の人を亡くした金氏を今、支えてくれているのが、ともに大学生に成長した長男と長女だ。最近まで兵役に就き、自宅から離れた大学に通うため一人暮らしをしている長男よりも、自宅から大学に通う娘が特に何かと助けてくれる。金氏が不慣れなインターネットなどIT機器の操作では、「お母さんは、のろい」と言いながら娘がよく手伝ってくれる。

北朝鮮で徹底して教育されて日本語が流暢(りゅうちょう)な母親を見て育った影響からか、娘は日本語に強い興味を示し、中高生時代に日本語を熱心に勉強した。警護員ら周囲の人に聞かれたくない母娘だけの会話をわざと日本語で話すほどだという。娘がもう一つ強い関心を示すのが母親の生い立ちだ。娘は「工作員・金賢姫」や事件に関する本もよく読むようになり、金氏は「私が死んでから読みなさない」と言うと、「お母さんが死んでからじゃなくて今読んで、話を聞きたい」とせがむ。

昨年には、娘に全てを打ち明けた。娘も「小学生のときから知っていたの。最初はショックだった」と告白した。「お母さんがきれいで、工作員に選抜されたからでしょう。お母さんは本当に苦労したんだね」と苦難が続いた母親の立場をおもんばかってくれた。娘は自宅近くの大学を選んだ理由について「お母さんが作ったご飯を食べて通いたいから」というが、母親を気遣ってのことでもあるだろう。金氏は夫を亡くした今、そばに家族がいてくれるありがたさを身に染みて感じている。(20220917産経新聞ネット版)

個別ページへ |Posted 2022.9.19|

茶道千利休・明治維新に転機・もてなしの心女性が継ぐ(産経から)


明治維新で武家を中心とした社会が終わると、西洋文化を尊ぶ風潮の中で茶道は危機にひんする。「そんな状況から茶道が再出発する契機の一つが、女子教育との結びつきだった」と依田さんは振り返り、先駆者として跡見学園女子大(東京都文京区)の創立者、跡見花蹊(かけい)の名を挙げる。花蹊は天保11(1840)年、摂津国西成郡木津村(現・大阪市浪速区、西成区)で生まれた。跡見家は聖徳太子に仕えた迹見赤檮(とみの・いちい)を祖とする名家で大庄屋だったが、花蹊誕生時は没落していた。

ただ、風流人であった花蹊の父、重敬(しげよし)は中之島(大阪市北区)で私塾を開いており、絵画や書の才にあふれた花蹊が受け継ぐ。明治8年、花蹊は東京・神田仲猿楽町に「跡見学校」を開校、華族をはじめ上流階級の子女が集まった。開学当時の学科は国語、漢文、算術、習字、絵画、裁縫、筝曲、挿花、そして点茶(茶道)の9科目。武蔵大の大屋幸恵教授(芸術と文化の社会学)によると、当時の女学校は「良妻賢母」を育成する機関で、そのためのカリキュラムだった。だが「花蹊の教育がユニークなのは、単なる花嫁修業とは異なり、情操を涵養(かんよう)するための教育に力を注いだという点だ」と強調する。

花蹊は大阪時代、利休流の茶道を受け継ぐ武者小路千家の茶人に入門し、茶の湯をたしなんでいる。女性が茶の湯を修練する必要性について、<何をしても点茶を習って置けば、花を一枝(ひとえだ)生けるにしても、茶を注(つ)いで出すにしても、床(ゆか)しさが見えるものです>と書き残している。大屋さんは「茶の湯が人格形成にもプラスの影響を及ぼすと、花蹊は考えていたと理解できる」と話す。

「現代にこそ利休の教えを」戦後も、女性が社会進出する一方、専業主婦化が進み、結婚戦略として「たしなみ」を身につけるべく茶道人口は増加した。ただ平成に入ると減少に転じる。特に女性の減少が顕著だ。総務省の社会生活基本調査によると、令和3年の茶道人口は約92万人で、男性約18万人、女性約74万人。10年前と比較すると、男性が約2万人減、女性は約76万人減と一気に半減した「近年は女性の高学歴化や晩婚化で、『たしなみ』のメリットを失った」。大屋さんはこう分析する。

こうした現状は、利休の教えに通じる「もてなし」の精神や、にじみ出る立ち居振る舞いといった、茶道によって得られる文化の喪失につながると危惧する。利休の教えを書き留めたとされる『南方録』に、ある人が茶の極意を尋ねたエピソードがある。利休は「夏はいかにも涼しきように、冬はいかにも暖かなるように、炭は湯のわくように、茶は飲みかげんがよいように、これが秘事のすべてです」と答える。

尋ねた人が「誰でも分かっていることだ」と興ざめすると、利休は「それができたなら、私はあなたの弟子になりましょう」と言ったという。当たり前のことをすることが難しいという利休の教えで、「相客に心せよ」などの条を加えた「利休七則(しちそく)」「利休七ケ条」として知られる。こうした利休の心を大切にした茶席について、大屋さんは説く。「他者の立場でものを考え、状況を考慮しつつ、他者の期待を上回る成果を達成しようとするコミュニケーションの実践だ。利休が生きた戦乱の時代と同じように異文化理解が不可欠な現代にこそ、大いなる意義を有している」

個別ページへ |Posted 2022.9.5|