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故・豊田章一郎氏「現地現物」説き続け(日経)

トヨタ自動車の名誉会長の豊田章一郎氏は、ひたすら「現地現物」を説き続けた経営者だった。父親(豊田創業者・喜一郎氏)昔、小さな車を自分で運転し、家の周辺をぐるぐる回っていたことがありました。試運転だったのか。ところが、途中で車がひっくり返ってしまった。あまり運転はうまくなかったのでしょうーーー。

章一郎氏が語ってくれたエピソード。笑い話かなと思ったら続きがあった。「でもね。体験しないとわからないことがあるんです。その体験を生かして、ひっくり返らない車を開発していかないと」トヨタに入社して6年目の1957年、初めての海外出張として米国を訪問した。当時、「独フォルクスワーゲン(ⅤW)」「ビートルズ」の人気が急上昇し、外国車締め出しの機運があった。

このままではトヨタは永遠に米国市場へ入れなくなると「クラウン」を急ぎサンプル輸出していた。そのテストが主な仕事だった。ニューヨーク、ボストン、デトロイトと走り「これならいける」と報告。クラウンの輸出を始めた。しかしすぐに、米国の高速道路で珠珠つなぎの車列に合流するには、馬力不足であることがわかった。苦情が殺到。試験が不十分だった。

章一郎氏は「現地現物とは単なる現場主義ではない」とも語っていた。
「走らせて満足で」ではなく「現場ニーズを徹底的につかむ」重要性をクラウンの教訓とし、時には貪欲に情報を得ることも。数年後、ニューヨークで偶然一緒になった米国通のソニー創業者、盛田昭夫氏から「米国ではもう少し大きなエンジンを」ともアドバイスを得たこともあった。これらの取り組みが現在のトヨタの収益源であり米国事業、高級者ブランド「レグサス」の礎となった。

口数は決して多くはなかったが、言葉はユーモアにあふれ、その温かさに接した人は親しみを込めて「章ちゃん」と呼んでいた。元経団連会長として異例の呼ばれ方だろう。祖父、トヨタグループの創始者、発明王だった豊田佐吉翁の命日に、生家のある静岡県で開かれる顕彰祭。「発明しようと思っても失敗ばかり」と嘆く小学生に「失敗の数なら私も負けないよ」とやさしく耳打ちしていた姿が印象的だった。

冒頭のひっくり返ったエピソード。
「社長(章男氏)も18歳の時、車を運転していて、自宅前でひっくり返ったことがありますけどね」との言葉で締めくくった。章男氏は現在、国内外の自動車レースに参加するほどの腕前。章一郎氏のちゃめっ気が現れたた瞬間でもあった。

自分の息子の章男氏への評価について、やじ馬的な要素を含めて社内での関心は極めて高かったが、語ることはほとんどなかった。ただ、本人に恥ずかしそうに話す場面に同席したことがあった。「よく、やってると思いますよ。大変だと思いますが、グループ30数万人の社員を背負っているのですから」章男氏が社長を佐藤恒治氏に引き継ぐことを発表したのがわずか3週間ほど前。失敗を恐れずに脱車屋をめざす佐藤次期社長へNバトンタッチ見届けるように2月14日、この世を去った。
(日経新聞・企画報道部長・黒沢裕氏・2023.02.16)

 |Posted 2023.2.16|