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茶道千利休・明治維新に転機・もてなしの心女性が継ぐ(産経から)


明治維新で武家を中心とした社会が終わると、西洋文化を尊ぶ風潮の中で茶道は危機にひんする。「そんな状況から茶道が再出発する契機の一つが、女子教育との結びつきだった」と依田さんは振り返り、先駆者として跡見学園女子大(東京都文京区)の創立者、跡見花蹊(かけい)の名を挙げる。花蹊は天保11(1840)年、摂津国西成郡木津村(現・大阪市浪速区、西成区)で生まれた。跡見家は聖徳太子に仕えた迹見赤檮(とみの・いちい)を祖とする名家で大庄屋だったが、花蹊誕生時は没落していた。

ただ、風流人であった花蹊の父、重敬(しげよし)は中之島(大阪市北区)で私塾を開いており、絵画や書の才にあふれた花蹊が受け継ぐ。明治8年、花蹊は東京・神田仲猿楽町に「跡見学校」を開校、華族をはじめ上流階級の子女が集まった。開学当時の学科は国語、漢文、算術、習字、絵画、裁縫、筝曲、挿花、そして点茶(茶道)の9科目。武蔵大の大屋幸恵教授(芸術と文化の社会学)によると、当時の女学校は「良妻賢母」を育成する機関で、そのためのカリキュラムだった。だが「花蹊の教育がユニークなのは、単なる花嫁修業とは異なり、情操を涵養(かんよう)するための教育に力を注いだという点だ」と強調する。

花蹊は大阪時代、利休流の茶道を受け継ぐ武者小路千家の茶人に入門し、茶の湯をたしなんでいる。女性が茶の湯を修練する必要性について、<何をしても点茶を習って置けば、花を一枝(ひとえだ)生けるにしても、茶を注(つ)いで出すにしても、床(ゆか)しさが見えるものです>と書き残している。大屋さんは「茶の湯が人格形成にもプラスの影響を及ぼすと、花蹊は考えていたと理解できる」と話す。

「現代にこそ利休の教えを」戦後も、女性が社会進出する一方、専業主婦化が進み、結婚戦略として「たしなみ」を身につけるべく茶道人口は増加した。ただ平成に入ると減少に転じる。特に女性の減少が顕著だ。総務省の社会生活基本調査によると、令和3年の茶道人口は約92万人で、男性約18万人、女性約74万人。10年前と比較すると、男性が約2万人減、女性は約76万人減と一気に半減した「近年は女性の高学歴化や晩婚化で、『たしなみ』のメリットを失った」。大屋さんはこう分析する。

こうした現状は、利休の教えに通じる「もてなし」の精神や、にじみ出る立ち居振る舞いといった、茶道によって得られる文化の喪失につながると危惧する。利休の教えを書き留めたとされる『南方録』に、ある人が茶の極意を尋ねたエピソードがある。利休は「夏はいかにも涼しきように、冬はいかにも暖かなるように、炭は湯のわくように、茶は飲みかげんがよいように、これが秘事のすべてです」と答える。

尋ねた人が「誰でも分かっていることだ」と興ざめすると、利休は「それができたなら、私はあなたの弟子になりましょう」と言ったという。当たり前のことをすることが難しいという利休の教えで、「相客に心せよ」などの条を加えた「利休七則(しちそく)」「利休七ケ条」として知られる。こうした利休の心を大切にした茶席について、大屋さんは説く。「他者の立場でものを考え、状況を考慮しつつ、他者の期待を上回る成果を達成しようとするコミュニケーションの実践だ。利休が生きた戦乱の時代と同じように異文化理解が不可欠な現代にこそ、大いなる意義を有している」

 |Posted 2022.9.5|