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名古屋市「100メートル道路」生みの親(田淵 寿郎)

「百メートル道路」に象徴される名古屋市街地の広い道路網。太平洋戦争で焼け野原となった市の復興の責任者として強力なリーダーシップを発揮し、都市計画を推進、自動車王国・名古屋の基盤を築いた 田淵 寿郎(1890~0974)は、広島県佐伯郡大竹町(現在・大竹市)生まれた。東京帝大で土木工学を修めた後、内務省の技師として各地の河川事業を手掛けた。
終戦直後、疎開先の三重県にいた時(1945年)に旧知だった「名古屋市長の佐藤正俊」に災害復興責任者として招かれ、焦土と化した街の復興計画を立案し1948年には助役として事業を指揮した。

計画は壮大だった。幅100メートルの道路2本(久屋通と若宮大通)を築き、50m、30mの幹線道路を中心部に張り巡らせた。 100m道路は市街地を分割して災害の拡大を防ぐのが大きな狙いだった。当時は一部の人しか車をもたなかった時代、大風呂敷広げたような計画だった。(この大風呂敷の話は「台湾を農業国にした東京帝大の土木部出身の八田與一」とよく似ている) 田淵自身が自叙伝に「100m道路つくり始めたころは、世間では飛行場を作るのか・・と笑った人がいた」と振り返っている。

道路を敷くには、徹底した区画整理が必要であった。宗教者の猛反対を地道に説得を重ねて、市の中心部にある墓地を平和公園(名古屋市千種区)に集中させた。現在では、田淵寿郎が手掛けた道路網は、押し寄せる自動車の波に順応して名古屋の大動脈として人と物の流れを支え続けている。

1995年頃、鳥取県の都市計画課長から愛知県の土木部長・名古屋高速道路公社の副理事長を務めた八田晃夫氏(台湾を農業国にした八田與一の長男)が「田淵寿郎の銅像設立」を提言したが、この100m道路の歴史を知る人が少なくて頓挫した。(201110.29.中日新聞の記事を 引用)

 |Posted 2014.1.17|