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【 障子を開けよ、外は広いぞ 】豊田佐吉の言葉(2017年は生誕150年)

中国最大の都市、上海、市街地を貫くように流れる黄浦江から西に10キロメートルほど移動すると、こじんまりした、れんが作りの建物が目に入る。周辺は集合住宅や庶民的な構えの飲食店が並ぶありふれた街並みだが、ここはおよそ1世紀ほど前に豊田佐吉氏が「豊田紡織廠」を構えた跡地だ。1918年、日本の紡織会社の間で中国進出が盛んになった。佐吉も進出を企てるが、周囲は慎重な姿勢を崩さない。

佐吉は、「(中国は)古い友人で、格別の人間関係をもたねばならない」と力説。そうしてこう諭した。【障子を開けてみろ、外は広いぞ】初めての海外事業は失敗のリスクも大きいが、佐吉は腹をくくる。上海郊外の旧フランス租界に邸宅を構え、まず個人事業として紡織工場の建設に熱中した。学生のころから目をかけた右腕の「西川秋次氏」も呼び寄せ、経営体制を整備。製造した綿糸布は中国に加えシンガポールなどにも輸出した。

佐吉は1930年に亡くなるが、西川氏が意志を継ぎ、1930年代半ばには上海工場は日本の工場を上回ってグループ最大規模になる。ここで出た利益は自動車事業の立上げにも役立ち、戦後も中国の紡織業復興に向けて、民間レベルで日中親善を実現してみせた。現在、トヨタ自動車は海外26カ国・地域で50以上の生産拠点を設け、トヨタ車の販売は170カ国・地域を超えている。

豊田綱領が掲げる「産業報国」は「進出した地域・町いちばんの企業になる」という言葉に置き換えられた。世界的に保護主義の色合いがじわりと濃くなるが、その真価が改めて問われようとしている。(2017年2月10日経新聞) このHP管理者は6年前に現地を訪問。中国政府によりこの記念館の取壊しが宣言されたと聞く。が、多くの民衆の声で現存している。

 |Posted 2017.2.11|